【中国緑茶の宴】茶塾にて ー①龍井茶のファンファーレー

龍井茶

 

浙江省の銘茶にして、中国がその一番茶を熱狂のうちに待ち焦がれる、

中国緑茶の雄である。

フランスのボジョレーにも似た、市場登場日への人民の殺到は、

はるか昔から衰えることを知らない。

 

明るい緑の水色、甘み、旨み、そして何より、

冬の憂いを一掃する、鼻腔から天空までを駆け抜けるような

鮮烈な香りは人を魅了してやまない。

 

今回、茶塾で飲んだお茶の皮切り、「獅峯龍井茶」は、伝統的な製法を少しく違え、

品種改良を施さない茶葉を、その茶が醸し出す独自の香りを大切にしながら

整えられた茶葉。

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獅峰龍井茶

 

伝統製法に比して、火入れの香りが和らいで、

ほのか花の香りをひそめたその味わいに、思わず天を仰ぐ。

 

通常の龍井茶は、春を呼び覚ますファンファーレ。

アイーダ・トランペットの輝かしい音色のお茶。

 

それに比して、今回の龍井茶は。

ほんの少し甘やかな、ソプラノ・コルネット

一杯目

空に舞い上がり、ふわりと降りてくるその音色は、

ただ、

きらめきに溢れて、輝かしい。

 

・・・・・・・・・・

 

吹奏楽部でほんの少し。

下手くそなトランペットを吹いていた。

その頃、楽器店のウインドウにあるピカピカのトランペットの前に、

何時間も佇んでいたことがある。

 

トランペットバカだった私の、

究極の憧れだったアイーダトランペット。

 

そして憧れてやまなかった先輩が、

隣で吹いていたコルネット

 

この二つに例える龍井茶

私がどれほどに愛しいと思ったか。

わかってくれる人は、きっと、数人はいるだろう。

 

。。。。。。

 

ちなみに。

 

刀剣に例えるなら、太刀一期一振

 

 

「Promised Land -その3-」過去からの呼び声<今回短め>

ご存知の通り、現在は2019年4月です。

 

2018年が去り、年は明け、新元号が発表され、卯月も半ばを過ぎた今になってまた昨年のことを書こうとしている。

 

これから書こうとしているのは、半年以上前、1回だけ見た舞台のこと。

 ぷろじぇくと☆ぷらねっと第11回公演

『プロミスト・ランド』

作・演出 日疋士郎

propla.p1.bindsite.jp

とはいえ、折につけ思い出しては脳内筆記、編集、削除、再考のループを続けていたので、まあ妄想的にはフレッシュな筈だ。れっつらごう。

 

今回は短く行きます。ボロが出るから。

 

1)他キャラの持つ「陰」、濡羽の属性としての「闇」

息抜き・空気緩和・便利系キャラとして見られるかもしれない濡羽だが、私からすれば暗黒を通り越した闇の体現である。それは「悪」などといったネガティブ要素すら含まない「無」一歩手前。「無」となり切ることができたなら「無」というステイタスが付与されたであろうに、彼にはそれすら与えられていない。

濡羽はどうしてここPromised Landにいるのだろうか?

他の人物は、外の世界で不具合があるか、こちらの世界で圧倒的に有利であるか、何れにしても「ここ」にいる意義を見出すなり感じるなりしていると推測される。

翻って果たして彼に、外の世界で不具合があったか?こちらの世界に生きることでメリットがあったか?

彼の「こちら」に存在する意味はどこにあるのか?

おそらく濡羽は世界における自分という存在の無用性を知っている。彼がピンで立とうとしないのはそのせいだ。

だからこそ、彼は舞台上の小道具である「白い椅子」に対して「椅子」として腰掛けることをしない。

自分が自分として求められることへの諦念、他者への寄生、たなびく空気感の恒常的上向き調整を、彼は息をするように身につけている。

誰でもない、何が特別できるわけでもない、何が特別できないわけでもない、何か格別の悲劇があったわけではない、何か尋常ではない試練があったわけではない。

故に、必須存在としての存在の重さを持ち得ない。

それらは濡羽のおよそ手の届かない次元で定まった条件であり、彼はすでに抵抗することなくその設定の中で生きている。

学生の頃は朱殷に告白をしたが、朱殷も同様に「寄生」する存在であったから、成長した濡羽が告白した対象が朱紗であったのは当然と言える。ただし、これらが真に恋愛に根ざすものであったかといえば、疑わしく思えるほどに、彼は対象それ自体には執着を見せない。

「無駄にさわやかに絶望、意味もなく明るく無関心」。

これが私が濡羽に持っているイメージである。そこには光も、陰すらも、ない。

 

2)崩壊が前提の朱殷

「どう見える?」

「光と陰」。

実の父と双子の片割れに、毛穴も覗かれそうなほどに見つめられ、挙げ句の果てに存在を素因数分解されちゃった人。それが彼女だ。

「美」、「賢」はおろか、各細胞の連続体である「人間」、重力場を有する「物体」という属性すら無視され剥奪され、「光」と「陰」の組成体としてのみ意義を有した時、彼女の自我は「独立」を拒否したのだろう。

「光」あっての「陰」、逆もまた然り。

単独では存在が難しい両属性の宿命を見せられた彼女に乗っては、相対的な存在様式しか残されていなかったのだ。誰かあっての自分、という。

 

・・・難しい言葉に疲れてきた。そろそろなんとかしなくちゃ。

 

要は、「一人になりたいの」と泣きわめいた朱殷が、その足で向かおうとしたのはアオのところだったわけで、これを徹頭徹尾無意識に矛盾を感じずに行動しているあたり、もう「朱殷お前何言ってんの?!?!?!?」なわけです。

崩壊が大前提な彼女なので、ロジックも端から崩壊して行くのでしょう。

 

 3)最終奥義もしくは最終兵器としての人物

濡羽です。以上。

 

…え?不親切?

これを語るには別のお話になります。なぜなら私の暴走が必須だからです。そこはまた密やかにアップします。

 

4)おわりに

 舞台のラストシーン。扉を開いて向こう側へ行くとある人物の背中で舞台は終わる。

なぜこの人物で締めるのか?

様々に思いを馳せたが、ふと。

私は、ここにようやく、生身の日疋士郎の「かけら」を見たように思った。

 

「この」役者は、当公演を最後に舞台を去るという。

 

日疋は、役者にとって至上の不可視の花を、彼に捧げのだとしたら。

 

舞台を一人で〆るという花を。

 

。。。甘いなあ(笑)。

 

 

<あとがき>

実はこのレビューその3を書き出したのは11月は霜月のこと。

刀剣女子であれば霜月騒動を想起しつつ、皇室献上物の五条鶴丸国永に想いを馳せる頃合いで、例の舞台からは2ヶ月を過ぎようというとんでもない時期。そして今はさらに2ヶ月を過ぎているとなれば、1度しか見ていない舞台について、知ったふうなことをかけるのか、貴様!と、ねじ込められても仕方がない話だ。

 

ところが、一旦かいた記事がクラッシュして蒸発、再筆の気力が消失。

 

が、句会の友人がこう宣った。

「3行で書くばよくね?」

 

。。。簡素って大事ですね。

 

【新年初JAZZ〜Aya tune〜】KEYSTONE CLUB TOKYO

一台のフルオーケストラ、ピアノ。

一台の弦楽オーケストラ、チェロ。

 


その間に、森 綾さんは、ヘミングウェイの映画のキャラクターのように立っていた。

従軍看護婦のように、

それでも一言口を開けばいつもの軽妙な綾さんで、そのギャップに新年の驚きを覚える。

 


「気軽にランチでも召し上がるように、ね」とのお誘いの言葉通り、耳に馴染んだ肌触りの良いナンバー。

 


綾さんのJAZZはJ-JAZZだと、思っている。

どんなに洒落ていても、こちらを置いてけぼりにしない

どこかに温もりや親しみを残すノスタルジーは、

緊張しながらシートにいる誰かさんに、

 


ほら、飴ちゃんあげるから。

 


とくすぐりに来るような、優しさがある。

 


ハスキーなハイトーンが、伸びる。

 


綾さんの声に、コントラバスではなくチェロのベース音がよく似合うのは、

多分彼女の声にのる倍音と良く響くからなのだろう。

 


たった一台でパーカスまで網羅しながら、チェロが流れる川のようにオブリガードを謳う。

 


どこかに太陽の明るさを秘めたピアノの音が、風や空を届けるように、旋律を奏でる。

 


双方を従えるのではなく、

導くのでも、導かれるのでもなく、

綾さんは響きを与え合うように歌っていく。

 


圧巻は、「火の鳥」だった。

これを聞きに来たといっても過言ではない、

手塚治虫の不朽の名作が映画化されるにあたり作られた主題歌。

 


言葉を紡ぐ人から、言葉を紡ぐ人へ渡されたこの曲。

 


………

 


時々、厨房の音が聞こえるのだが、

何だかそれすら、暮らしの中に流れる音楽の一部のようで、綾さんのお茶目の一部になってしまっていた。

 


KEYSTONE CLUB TOKYOのピアノの音が気に入ったので、どこのピアノですか?と店の人に聞くと、

にっこり笑って、

 


オーナーがこだわってドイツで探してきたんですよ

 


ですって。

どこのかは、聞けませんでした。

 


秘密があるくらいが楽しいですね。

 


花正月

JAZZに合わせて

けんけんぱ

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茶禅草堂、中国茶初稽古

過日、茶禅草堂へ今年の初稽古に向かった。


教室に着くと、姉弟子さんと先生が稽古後の一息に、薬膳粥を召し上がっておられた。

 

お邪魔をしてしまいましたか

と伺うと、

いいえ、どうぞ良かったら。楽しくてついね。

と。

 

お腹の具合は丁度だったのでご相伴は辞退したけれど、

思いがけずお教室のお仲間同士で挨拶。

 


お稽古が進むと、また次の姉弟子さんがあらわれ、

お稽古に加わって下さる。


そしてまたまたご挨拶、そして姉弟子さんのお稽古も少し拝見、お点前を頂き。

 


きっちりきっちりのお稽古の日もあれば、

こんな風に、順送りに触れ合いながらのお稽古の日もある。


こんにちは、と手を握って、

またね、と手を振るように。

 


縫いしろを少しずつのばしてあれば、

そこで重なって縫い合わさって

いつか、たっぷりと豊かな反物のように、

茶縁も人の縁もつながるのではないか。

 

そうであると、良い。

 


などと思う一日。


●岩茶:梅占

梨山伝統烏龍茶

 

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Please, Mr. Dotman 〜 Pixel Art ParkでLegendに逢った・序章〜

ーまたは、ヒトの認知領域に対する一つの挑戦のカタチー

 

「俺、レジェンドに逢えるんだー」

仙台在住のゲーヲタの友人ぴこさんが上京の連絡を寄越した時、ドヤ顔でそう付け加えてきたのがそもそもの始まりだった。

 

世の中に「ドット絵」というジャンルがあることくらいは知っていた。

(…筈だ)。

 

スペースインベーダーや超初期のゲームボーイのキャラクターのように、ちっさい四角を集合させるカクカクしい絵画表現だよな…という認識は間違ってはいなかったはずなのだが、異様な熱量で盛り上がり続けるぴこさんは、クールな現状認識でさらりとすませることを許してはくれず、Messenger上で、facebookグループの記事内で、彼はレジェンドの功績と作品をマグマのように熱く垂れ流しもとい奔出させ、こちらの興味を引きにかかったのである。

 

レジェンド、小野浩さん。

またの名をMr.ドットマン。

 

今なお、神ゲーと讃えられる「ゼビウス」、ファンの愛着の叫びを搾り上げる機体「ソルバルウ」のキャラデザインを始め、数々のドットアートを世に送り続けた人。

 で、ググってみた。↓

Mr.ドットマン

え。

ええと、そんな人が、そんなちょっとお茶してくるみたいなノリで逢ってくれちゃうんだ?ぴこさんと?

 

(*ぴこさんが状況を補完してくれたので、彼のコメントを挿入しておきます)

【ぴこさん】

状況とか文脈ははしょると俺スネ夫みたいだね(笑)(  ̄▽ ̄)

全ては小野さんの優しさと気さくさのおかげで。

会えることになったんだけどね。

あとは大和の友達大和住んでてくれてありがとう。

なんだけど(笑)(  ̄▽ ̄)

あとはまっこさん。やっちゃん。式と披露宴別日程でありがとう。

おかげで次の日小野さんに会えました。(  ̄▽ ̄)

って感じ(  ̄▽ ̄)

  

(すみません、諸々雑駁な掴み方で…by あゆ〜ら)

 

気さくなレジェンドだなあ…と、思いながらそのままググる

と。

どかっ

と、脳髄をぶん殴られるような代物に出会った。

 

…なんだこれ。

 

それは、16✕16ピクセルで、古今東西の名画を表現している作品群だった。

 

クリムトの「接吻」、ムンク「叫び」、「モナ・リザ」、「真珠の耳飾りの少女」etc.

…ドットで細密画を描き出すのであれば、すごいなあと感動もするし感心もする。

超絶数多のドットを微妙なカラーリングで配置していけば、どんな対象でも画像にできる。もちろん誰にでもできることではないし、センスが物を言うそれは技術も知識も熟練も必要だ。だが、それはPhotoshop等のアプリでもある程度は自動でできることで、頭打ちする感動が、そこにある。

 

だが、これは。

縦横たった16個ずつ。ベタ塗りで色分けされたドットが並ぶ。

それだけだ。

そこには絵画における筆のタッチや絵の具のグラデーション技法はほぼ機能せず、なめらかな輪郭線も存在しない。

だが、しかし。

明らかにそれが「それ」だと分かるのだ。

誰が見ようがこの絵は「コレ」だと、「分からされて」しまう。

16✕16ピクセルの名画を見た瞬間は、

「うわあすごいなあ、ふふっ」

という、ある種のどかな驚きと感激を覚えるのだが、その直後、脳内で何かのスイッチが入るのだ。

ちょっと待て。

わたしは、何故「コレ」をそれだと認識できるんだ?

絵・写真と鑑賞者の間には、認識の共有が存在する。

「『コレ』はあれですが、いかがでしょうか」

「なるほど、あれでありましょう」

そして、描画者が捧げる提示を鑑賞者がおもむろに受け取り、コレはそれだね、という決着を得る。

ところが16✕16ピクセルの「真珠の少女」は、コレがそれであるという認識において、鑑賞者に凄まじい共鳴の強制を図ってくるのである。

「ほら、『コレ』」

「あ、はい!!!!!!」

www.instagram.com

この16✕16ピクセル、私は確かにあの名画だと認識する。

 

www.instagram.com

これなど紛うことなき「麗子像」だ。

 

Mr.ドットマン、小野氏がかの名画のエッセンス中のエッセンスを掴み取って絞り上げ、ほんの数滴までに精錬しぬいた結果がそこにある。

 

では。

名画を「これ」足らしめている「要素」とは一体何なのだ?

絵の要素はバランス、色彩、構図だろうか。それでは極限まで単純化・省略化・リサイズ・再構成を経てなお残る、対象の真髄とは一体何なのか。

 

一体ヒトは、何をもって、対象を認知・認識し、識別するのか?

私は一体何を、

この絵に、

求められている?

 

 グルグル考え始めたら脳が沸騰しだし、

「意味わかんない、何だこれ!」

と最後に私は叫んだものだった。

 

とまあ、意味不明な方向に壮大な感動を覚えつつ、ぴこさんのそれは嬉しそうなレジェンドへの賛辞に撃ち抜かれつつ、ドット絵なるものが意識に住み着き始めた…のが今回のイベントを見に行くという一連の、始まりだった。

 

・・・・・ 

 

1)ドット絵を描く人(ドッター)は、しばしば「ドットを『置く』」という言い方をする。
2)「掟」(おきて)の語源は「置く」である。これは英語のLaw(掟)と奇しくも共通しており、その語源はLay(横たえる・置く)となっている。

3)そもそも「掟」とは神が人に守るようにと「置いた」ものである。

4)であるなら、「置く」という概念を持つドットアートという行為はプリミティヴな祈りや呪いに近いものとは言えまいか。だからこそ、共感強制力、脳内補完要請力、熱狂発動力を根源に持つのではないか。

 

などと、厨二病的な思考をしていたところ、ぴこさんが自作のドット絵を載せたタイムラインに小野さん御本人が降臨。

 

びっくりしました(真顔)。 

小野さん、本当、気さくでした(思わず片言になる)。

 

そして、↓へ行くこととなった。

 

pixelartpark.com

「今週のお題:読書の秋」コンビニの異国情緒や月冴ゆる  

今週のお題は、「読書の秋」とのこと。

天は高く馬は肥ゆる。

では、問おう。

 

「あなたは私のマスター・・・」

 

もとい。

 

「読み物」としての『コンビニ外国人』は活字中毒者への好餌たるや?

 

新書を読む時は、ともかくその分野の知識を速攻で詰め込みたい時。なので、それは本というよりツールに近くなることがほとんどだが、

思いもよらぬ方向から、「読むべし!」と、天の声が殴り込みをかけてくることがある。そんな状況における新書とのランデブーは、めったに無い、が、胸が踊る。

 

「コンビニ外国人」。

自宅駅の本屋で購入し、あえてカバーをかけずに電車にのる。

頁を繰る。

ぺらり。

ぺらり。

ぺらぺらぺらぺら

「あ。」

降りる駅、乗り過ごした。

 

つらつら思うに。

 

この語り口は、何なのだろう?

 

外国人バイトをひたすら擁護し、日本の体質を責めるわけでもない。

日本を守るために彼らを排斥しようというわけでもない。

而して中立を保ちクールに状況分析をしているわけでもない。

時々挿入される図表や数値も、エビデンスとして威風堂々展示されているわけでもない。

暗部をえぐり出そうというわけでも、

文化論を宣おうというのでもない。

 

探るように読み進むうち、やがて、眉毛をヘニョリとハの字にして、ちょっと首を捻っている。そんな筆者の姿が、ふと、見えた。

 

決して薄暗くはない、彼らである。

物質的に豊かではないが、彼らの在りようは母国やそのルーツから十全に肯定され、満たされているかに思える。

彼らを迎える地方都市には、柔らかな共同体すら、生まれつつある。

 

無論、問題は多々あろうが。

あれ、これ、結構ハッピーな状況になるんじゃね?

何か、取りこぼしてるような気もするけど、オーライになりそうじゃね?

 

ただ、その取りこぼしの何か、が、奥歯に挟まってるような、そんなモダモダな感じは?

ん?

 

何を感じる?

 

今改めて読み返してみると、実際は固くてシビアな事実を、固く述べているのだ、確実に。

 

だのに、本を閉じて思い浮かぶ印象は、隣のばーちゃんを捕まえて「今こんな状況なんだよ、なんかなあ、悪くないと思うんだけどなあ、でもなあ、なんかスッキリしないんだよなあ」とこぼしている一青年の姿。

 

なんだ、こりゃ。

 

とまれ、このギャップが、こちらに、無知蒙昧なりに考えはじめることを余儀無くさせるのだ。

 

 

そーかそーか、そりゃ考えんといけんねぇ。

 

と、むむ、と考え出す読み手側。

 

最後に。

 

…ちょっと悪ふざけしすぎました。

が。

 

読み手にそこまでの妄想、もとい想像の余地を与えるのは、筆者の力力によるもので、絶妙に柔らかさとウエットなタッチを忍ばせた文体、かなと漢字の配分、シンタックスにページめくりに緩急をつけさせる文体処理。

何より、多く残る文意の「余白」。

「いいおほせて何かある」とは、芭蕉の言葉だが、白黒どころか灰色すらもつけずにおいた、その余白。

そこに、無限の広がりがある。

 

さて。

 

この本、195ページからの疾走感が眼目の一つである。

おそらくは、取材するうちに湧いたであろう、彼らに対するインティメイトな感情が、ついに溢れて迸っている。

 

でも、どこか、照れながら。

 

だから、最後まで、こちらも寄り添うことができるのだろう、その優しさ故に。

 

 

コンビニ外国人 (新潮新書)

コンビニ外国人 (新潮新書)

 

 

 

藤本染工芸の思い出。

GREEをひっくり返していると、懐かしい写真を見つけた。

まあ、7年前の投稿だ。

石井かほり監督の映画、「めぐる」。
http://www.gulicreates.com/meguru/

その主人公、藤本先生の工房「藤本染工芸」に行ったときのことだった。
https://tokyoteshigoto.tokyo/studio/fujimotosenkougei/

この頃、着物を着ることすらできなかったというのに(笑)。

買っちゃったんですよね、陣羽織。

<再掲>
【着物のふるさとへ~「めぐる」が生まれた工房~】

着物は着る人に「張り」を求める。
体力、気力、きちんとした体。
そのいずれも人並み「超」以下の私はやや寂しい思いで反物や着物を繰っていた。
美しいけれど、私は着れない。

と。そこに、それが、いてくれた。
待っていてくれた。

1枚の陣羽織。

うすいうすい練絹の色にぽっ、ぽっと花が咲く。
軽く作ってあるその直線断ちは、羽織ると楽しいシルエットを作り出す。
裏地にまでも散る花びらの木版一枚一枚、全てが表情豊かに愛らしく。
ジーンズに、洋服に。合わせられる、これなら。

それでも一旦脱いだ。
で、まだ気になりだして羽織る。

皆さんお優しく、買え買えという雰囲気の全くない中、
ちら、と見るたび、いいですね、お似合いですね、と
お声をかけてくださる。

脱げなくなった。

何でも、東京の品評会での入賞作だそう・・・みたいな話をきいて余計に脱げなくなる。

あの、おいくらですか?
「・・・」
「0、一個少なくないですか?!」(いや私が無知なのかもしれませんが。)

売り手と買い手の間には契約が発生する。
この日、感謝、という契約が誕生し、私は世界に一つだけの花を手に入れた。

続きのもう一間ではなぜか宴会が始まっており、
着物とお酒と人とがくるくると、よい関係を結んでいた。
この祝福された世界は、ひとえに藤本さんによるものだ、と思う。
全く偉ぶらない。そして誰もいたずらに藤本さんをよいしょしない。
ただ、心からの尊敬と、信頼と、着物に対する愛情が満ちている。
そこから、生まれたのだ。

あの、「めぐる」も。

14時から5時過ぎるまですっかりとお邪魔してしまったが、
お暇する前に工房を見学させていただくことになったので、
そにかくまずは、うきうきと、げたさんに写真をとってもらった。
ジャポネでシックな女性が写っているかとおもいきや。

そこにいたのはチャンチャンコを着た
ワカメちゃん、ないし、ちびまるこちゃんだった。

藤本染工房