【プロミスト・ランド】所感、その1。

 9月、日疋氏率いる劇団「ぷろじぇくと☆ぷらねっと」の公演、『プロミスト・ランド』を見てきたので、その所感をまとめておこうと思います。

 注)そもそも私は、内藤陳氏の書評を読んで心を打ちぬかれ、「ファンがクールでどうする、入れ込まなくてどうする、評が激情に溢れながら逆上していかなくてどうする!」という信念の持ち主なので、おそらくどんどん文体が逆上していくと思われます。

 論理性や整合性を求める理性的な方に置かれましては、自己責任で読み進めてください。

 

1.「約束の地」としての『白い椅子』

 「約束の地」とは聖書用語で、旧・新約聖書に共通して現れる言葉であり、もともとは【、イスラエルの民に与えると約束した土地。この約束は、アブラハムに最初に与えられ(創世記15:18-21)、次いでその息子イサクに、さらにイサクの息子でアブラハムの孫であるヤコブにも与えられた(創世記28:13)。約束の地は、「エジプトの川」からユーフラテス川までの領域とされ(創世記15:18-21出エジプト記23:31)、出エジプトの後、約束をされた者の子孫に与えられるとされた(申命記1:8)。】(Wikipediaより)ものであるが、文学や諸作品においては「求めていた土地、楽園、いつか辿りつく場所」の代名詞として用いられることが多い。

 「椅子」は同時に、人の「現実」における地位やポジション、受け入れられている場所、定位置の代名詞であることから、舞台の「白い椅子」は、「約束の地」の皮肉な体現であると言えよう。

 この椅子は、常に舞台上に存在しているので、当然劇中人物も観客も視認している。が、時には場面転換のネジ回しに使用され、時に柵となり、「椅子」として機能している場合でも人物が代わる代わる腰かけてはすぐに立ち去り、時にはベンチに、時には教室の椅子、アトリエのチェアと、性質も持ち主も共に、常に浮遊する不確定な存在だ。

 そのような不確定なモノ、見えていても見えていない何か、すでに辿り着いているかもしれないのに気が付いていない場所、自分だけのものではない位置が、半透明な存在の重みをもつ「椅子」として提示されていることになる。

 「どこかに行きたいがそれがどこであればいいのか分からない」場合、同時に、「その場所を受け入れたくない」場合、「約束」は、いったい誰と誰が結ぶのか、その約束は有効であるのか、「命」を持つのか否か。

 ここで椅子の色である「白」が意味を持つ。聖書時代、墓の入り口を塞ぐ石が白い漆喰で塗られていたことから、「白」は「清/聖/整」では無く、死と警告の象徴であった。今ここで「椅子が白い」のであれば、この約束は、「命」を持たず、実現され得ないものである。

 ただし、現時点では、である。日疋氏はその現状に対峙し、抵抗の旗を振る。約束の地を得るがために。それがこの舞台の一要素だと思われる。

 「いつかどこかに帰りたい」というのは日渡早紀の漫画「ぼくの地球を守って」中のセリフだが、『プロミストランド』が継続公演であるのは、「それ」が未だ姿を持たないものであり、日疋氏の希求の道程の実録だから、なのだろう。(「自分探しの日記」という、凡人がやると、後で見返した時にこっぱずかしくてのた打ち回るテイのものだ)

 椅子という日常品。そこに色が付いた時、もしかすると「約束の地」の姿を垣間見ることができるのかもしれない。ただし、「気が付かなかっただけで、いつもそこにあった」的な青い鳥エンディングは、無い。これは絶対に無い。もしありそうと思うとしたら、それは「あなた」がこの世からの逸脱や追放を真の意味で味わことったなく、いくばくかの希望を現状に抱いているからだろう。こんなこと言ってますが、もしあったらどないしよう。

 

 あ。そういえば、この椅子に、濡羽は椅子として一度もきちんと腰かけていない気がする。もしそれが正しいなら、私が考えている濡羽の闇や救いの無さが裏打ちされるな。

 

 はい、だんだん文が崩れてきましたね。評論家じゃないんだからこのまんまの勢いでサクサクいきます。

 

2. 物語の地母神としての「朱」

 登場人物はそれぞれに対比され得るカウンターパートを持つが、双子の母である「朱」は、ただ一人特異な存在である。他13名は、2次元的なXY座標面上での対立を示すが、朱は13名とは異なり、3次元的なZ軸上に唯一存在する真のカウンターパートだからだ。

要は唯一彼女がこの世のスタンダートの枠内の人物だからで、「んなこといったって旦那をナイフで刺してるんだから犯罪者じゃないか」と言う向きもあろうが、自分の子供を守るために牙を剥くのは母性の持ち主としては至極真っ当な性質であって、見なかった振り、ネグレクト、一緒になって圧迫、ひたすら耐える(この場合、根本的には自己防衛なのでやっぱり母性の欠如と言えなくもない)していくよりよほど正しい母親だろう。

 小説家の平井和正は、高橋留美子論の中で「物語における地母神論」を主張している(ちなみにこの評論もかなり逆上型であるので一読する機会があれば是非)。要は物語には必ず「女神」というか「地母神」的存在があるという論であって、その地母神は①かならずしも主人公とは限らない②決して物語中でカリカチュアライズされることがない③駄作になるか良作になるかは、コアたる地母神の存在の有無で左右される…云々。たとえば「うる星やつら」の中のラムがそれで、他のキャラがどきつく戯画化されるときでも、ラムの表現は崩れきることがない。仮に彼女の神聖さが損なわれるとしたら、「うる星」はただのドタバタギャグに堕し、そこに流れるペーソスや深みが一切失われることになる。

 さて、そこで。まさに「朱」はこの作品において、そのポジションにいるわけだ。場面転換の際の登場人物が妙なポーズをとる場面やギャグ化したりする場面に、彼女は一切関与していない。彼女の至極真っ当さを起点として、Distortionや逸脱(と言われるもの)が浮き彫りになる。

   仮に彼女がドラッグクイーンみたいな存在だったとしたら?ギャグっぽいキャラだとしたら?もっとヒステリックだったとしたら?…この舞台の大前提が変容するので、その反対色の顕現として、まったく色彩の変わった内容になるだろう。

 その意味で、めちゃくちゃ重要で、かつ美味しい役だったと思います。ただ、子宮の中まで見せなくちゃいかんので、深く掘り下げて、掘り下げた揚句に抑制して、統制のとれた存在感を必要とされると思われるので大変だったろうなあと思います。

 

 どんどん、しゃべり口調になってきましたね。

 

こんな感じで、続く。

 

「アオのカウンターパート」「輪郭のない朱殷」「濡羽の闇」あたり書ければいいなあ。