毛がにのおじちゃんー今は亡き、福島菊次郎によせて。【過去記事】

福島菊次郎とは。

 両親を早くに亡くした母の親代わりの恩人であり、
私にとっては、彫金の匠の人であり、
お正月には、一人に一杯毛がにを振舞ってくれる、
最高のおじちゃんだった。

あれは、小学生の頃。

福島のおじちゃんが、銀座で写真展を開催するという。
フリルのワンピースと赤いエナメルの靴を履いた私は、
母と一緒にうきうき気分でお出かけをした。

ぎいっと扉を開く。

と、そこには。

原爆の写真が、並んでいた。
三里塚闘争の写真が、掲げられていた。

 

ピカドン -ある原爆被災者の記録-

ピカドン -ある原爆被災者の記録-

 
写らなかった戦後3 殺すな、殺されるな 福島菊次郎遺言集

写らなかった戦後3 殺すな、殺されるな 福島菊次郎遺言集

 

 壁には、薬品のシミがついている写真もあった。
右翼団体の攻撃に合い、塩酸をぶちまけられたのだ、
という。

私は、トイレに駆け込んで、吐いた。
空えづきをするほどに、泣きながら胃液まで吐いた。
それから1ヶ月、夜は一人で寝ることができなかった。

それほどに衝撃が大きかった。

おじちゃんはやがて、山口の無人島に身を引き、
自給自足の生活を始める。
胃癌で全摘出した体で、田を耕し、漁師に魚を分けて貰いながら。

写真と彫金を続けていたはずだ。

母が大切にしているブローチは、おじちゃん作のマンボウ
私の十字架のネックレスは、おじちゃんの娘さんの作品。
「これ以上の十字架はきっと俺にも作れない」と、
おじちゃんが絶賛した最初で最後のクロス。

そんなおじちゃんが、東京で再び、個展を開く。


~立川新聞~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

http://tachikawa.keizai.biz/headline/778/

「府中グリーンプラザ(府中市府中町1)で8月14日、
帰って来た伝説の報道写真家、福島菊次郎さんの最終講演会
「遺言Part3」と写真展が開催される。

今回は同日に4年がかりで書き下ろした著書、
「写らなかった戦後3 殺すな、殺されるな 福島菊次郎遺言集」
(現代人文社)の発売を記念して講演会と写真展を開く。

講演会ではフォトジャーナリストの山本宗輔さんを
聞き手として招く。

同講演会実行委員会の一ノ瀬さんは
「福島さんは山口県在住で現在89歳。
『今回で人前に出るのは最後にする』とおっしゃっているので、
ぜひ福島さんの思いを多くの人に受け取ってほしい」
と話す。

講演会は14日14時開演(13時開場)。
資料代1000円(前売り800円)。
写真展は、
8月14日=11時~19時
8月15日・16日=10時~19時
入場無料。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

是非、お立ち寄り下さい。

忘れてはならない昭和の歴史を、

おじちゃんが捉えてくれているのだから。

【福島菊次郎】/ウィキペディアより

1921年山口県生まれ。
報道カメラマン福島菊次郎としての原点は、
広島原爆を6日間の違いで免れ、米軍上陸を想定した九州の
蛸壺壕で爆雷を抱え敗戦を迎えたことにある。
戦後、国に見捨てられた被爆者の苦しみを撮影し続け、
ピカドン』を出版(1961)。

上京後は60年代から70年代の激動期に、三里塚闘争
ベトナム反戦市民運動全共闘運動、自衛隊と兵器産業、
公害問題、若者の風俗など、多岐にわたる現場を取材し、
10冊を超える写真集を刊行した。

天皇の戦争責任を問い続け、「自衛隊違憲である」との
信念から、防衛庁を欺いて自衛隊の軍事演習、
隠された兵器産業などをつぶさに撮影し、報道。
暴漢に襲われ重症を負い、自宅は不審火で焼けたが信念を貫いた。

国に絶望し、マスコミにも絶望した福島は、
26年前に東京を捨てて瀬戸内の島に入植。
1987年には『戦争がはじまる』と題した
フォトルポルタージュを刊行する。
まさに改憲の野望に燃える政権の登場を
予言したかのようなこの写真集は、
今こそ必見の書といえるだろう。

孤高のジャーナリストも老境の87歳、体重37kgで満身創痍。
報道写真家として、主権者の1人としての責任をまっとうしようと、
ジャーナリズムのあり方をタブーなく論じる。

某年、6月に都内で行なわれた遺言講演会『戦争がはじまる』は
大盛況で、3時間にわたるエネルギッシュな講演は、
会場にあふれ返る幅広い年齢層の聴衆を圧倒した。

 

 

DAYS JAPAN 2015年 11 月号 [雑誌]

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My Private Fukushima―報道写真家 福島菊次郎とゆく

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