「今週のお題:読書の秋」コンビニの異国情緒や月冴ゆる  

今週のお題は、「読書の秋」とのこと。

天は高く馬は肥ゆる。

では、問おう。

 

「あなたは私のマスター・・・」

 

もとい。

 

「読み物」としての『コンビニ外国人』は活字中毒者への好餌たるや?

 

新書を読む時は、ともかくその分野の知識を速攻で詰め込みたい時。なので、それは本というよりツールに近くなることがほとんどだが、

思いもよらぬ方向から、「読むべし!」と、天の声が殴り込みをかけてくることがある。そんな状況における新書とのランデブーは、めったに無い、が、胸が踊る。

 

「コンビニ外国人」。

自宅駅の本屋で購入し、あえてカバーをかけずに電車にのる。

頁を繰る。

ぺらり。

ぺらり。

ぺらぺらぺらぺら

「あ。」

降りる駅、乗り過ごした。

 

つらつら思うに。

 

この語り口は、何なのだろう?

 

外国人バイトをひたすら擁護し、日本の体質を責めるわけでもない。

日本を守るために彼らを排斥しようというわけでもない。

而して中立を保ちクールに状況分析をしているわけでもない。

時々挿入される図表や数値も、エビデンスとして威風堂々展示されているわけでもない。

暗部をえぐり出そうというわけでも、

文化論を宣おうというのでもない。

 

探るように読み進むうち、やがて、眉毛をヘニョリとハの字にして、ちょっと首を捻っている。そんな筆者の姿が、ふと、見えた。

 

決して薄暗くはない、彼らである。

物質的に豊かではないが、彼らの在りようは母国やそのルーツから十全に肯定され、満たされているかに思える。

彼らを迎える地方都市には、柔らかな共同体すら、生まれつつある。

 

無論、問題は多々あろうが。

あれ、これ、結構ハッピーな状況になるんじゃね?

何か、取りこぼしてるような気もするけど、オーライになりそうじゃね?

 

ただ、その取りこぼしの何か、が、奥歯に挟まってるような、そんなモダモダな感じは?

ん?

 

何を感じる?

 

今改めて読み返してみると、実際は固くてシビアな事実を、固く述べているのだ、確実に。

 

だのに、本を閉じて思い浮かぶ印象は、隣のばーちゃんを捕まえて「今こんな状況なんだよ、なんかなあ、悪くないと思うんだけどなあ、でもなあ、なんかスッキリしないんだよなあ」とこぼしている一青年の姿。

 

なんだ、こりゃ。

 

とまれ、このギャップが、こちらに、無知蒙昧なりに考えはじめることを余儀無くさせるのだ。

 

 

そーかそーか、そりゃ考えんといけんねぇ。

 

と、むむ、と考え出す読み手側。

 

最後に。

 

…ちょっと悪ふざけしすぎました。

が。

 

読み手にそこまでの妄想、もとい想像の余地を与えるのは、筆者の力力によるもので、絶妙に柔らかさとウエットなタッチを忍ばせた文体、かなと漢字の配分、シンタックスにページめくりに緩急をつけさせる文体処理。

何より、多く残る文意の「余白」。

「いいおほせて何かある」とは、芭蕉の言葉だが、白黒どころか灰色すらもつけずにおいた、その余白。

そこに、無限の広がりがある。

 

さて。

 

この本、195ページからの疾走感が眼目の一つである。

おそらくは、取材するうちに湧いたであろう、彼らに対するインティメイトな感情が、ついに溢れて迸っている。

 

でも、どこか、照れながら。

 

だから、最後まで、こちらも寄り添うことができるのだろう、その優しさ故に。

 

 

コンビニ外国人 (新潮新書)

コンビニ外国人 (新潮新書)