刈り取ることができるのは、己の撒いた実でしかない、ということ。


京都大学の入試が、ネットにリアルタイム流出したとのニュース。
「まじめに勉強してきた受験生達が、かわいそうだ」とのコメントを眼にしました。

まじめに勉強してきた受験生達は、あんなやり方で合格した人を、
恨んだり、羨んだりはしないのではないかな。

全員等しく、カンニングするという選択肢はある中で、
しない、という道を選んで、受験に臨んだわけです。

すくなくとも、私はそうでした。

あいつ、ずるい

そう考えた人は、チャンスがあったらそれをしたいと心のそこで
思っていたかも知れず、そうなると50歩100歩ではないでしょうか。

人は、己が育てた作物の実を、収穫するわけであって、
ああいう方法をとった人は、その結果生った実を収穫するのです。
その実は、いったい、どれほどに貧しいことでしょう。

入った処で付いていけないこともあるでしょう。
入った後で悔い改めて怒涛の研鑽を重ね、素晴らしい人物になることもあるでしょ
う。

この方の犠牲?となって別の道を辿ることになった方は、
もしかするとその道の権威となることもあるでしょう。

ただし間違いの無いことが一つあります。
神様は、不正をお許しにはならない。

人の世においても、愚直な、真摯な、不器用な誠実さが、
結局は勝利を納めているのではないでしょうか。

だから、損をしたなんて思う必要はちっとも無い。

何が益となるか、何が害となるか。
それはちっとも分からないと思うのです。

なにか不正が行われた場合、私はその背後にある神様の存在に心を留めてみます。
こんなことが行われることをお許しになったということは、
なにか、大きな意味が、わたしには計り知れない意味があるかもしれない、と。

当然、私とて、理非、是非、善悪は考えます。
判断もします。
でも、本当の意味での裁きは神様の領域だと思い、ちょっと斜めにおいておくので
す。