「Promised Land -その3-」過去からの呼び声<今回短め>
ご存知の通り、現在は2019年4月です。
2018年が去り、年は明け、新元号が発表され、卯月も半ばを過ぎた今になってまた昨年のことを書こうとしている。
これから書こうとしているのは、半年以上前、1回だけ見た舞台のこと。
ぷろじぇくと☆ぷらねっと第11回公演
『プロミスト・ランド』
作・演出 日疋士郎
とはいえ、折につけ思い出しては脳内筆記、編集、削除、再考のループを続けていたので、まあ妄想的にはフレッシュな筈だ。れっつらごう。
今回は短く行きます。ボロが出るから。
1)他キャラの持つ「陰」、濡羽の属性としての「闇」
息抜き・空気緩和・便利系キャラとして見られるかもしれない濡羽だが、私からすれば暗黒を通り越した闇の体現である。それは「悪」などといったネガティブ要素すら含まない「無」一歩手前。「無」となり切ることができたなら「無」というステイタスが付与されたであろうに、彼にはそれすら与えられていない。
濡羽はどうしてここPromised Landにいるのだろうか?
他の人物は、外の世界で不具合があるか、こちらの世界で圧倒的に有利であるか、何れにしても「ここ」にいる意義を見出すなり感じるなりしていると推測される。
翻って果たして彼に、外の世界で不具合があったか?こちらの世界に生きることでメリットがあったか?
彼の「こちら」に存在する意味はどこにあるのか?
おそらく濡羽は世界における自分という存在の無用性を知っている。彼がピンで立とうとしないのはそのせいだ。
だからこそ、彼は舞台上の小道具である「白い椅子」に対して「椅子」として腰掛けることをしない。
自分が自分として求められることへの諦念、他者への寄生、たなびく空気感の恒常的上向き調整を、彼は息をするように身につけている。
誰でもない、何が特別できるわけでもない、何が特別できないわけでもない、何か格別の悲劇があったわけではない、何か尋常ではない試練があったわけではない。
故に、必須存在としての存在の重さを持ち得ない。
それらは濡羽のおよそ手の届かない次元で定まった条件であり、彼はすでに抵抗することなくその設定の中で生きている。
学生の頃は朱殷に告白をしたが、朱殷も同様に「寄生」する存在であったから、成長した濡羽が告白した対象が朱紗であったのは当然と言える。ただし、これらが真に恋愛に根ざすものであったかといえば、疑わしく思えるほどに、彼は対象それ自体には執着を見せない。
「無駄にさわやかに絶望、意味もなく明るく無関心」。
これが私が濡羽に持っているイメージである。そこには光も、陰すらも、ない。
2)崩壊が前提の朱殷
「どう見える?」
「光と陰」。
実の父と双子の片割れに、毛穴も覗かれそうなほどに見つめられ、挙げ句の果てに存在を素因数分解されちゃった人。それが彼女だ。
「美」、「賢」はおろか、各細胞の連続体である「人間」、重力場を有する「物体」という属性すら無視され剥奪され、「光」と「陰」の組成体としてのみ意義を有した時、彼女の自我は「独立」を拒否したのだろう。
「光」あっての「陰」、逆もまた然り。
単独では存在が難しい両属性の宿命を見せられた彼女に乗っては、相対的な存在様式しか残されていなかったのだ。誰かあっての自分、という。
・・・難しい言葉に疲れてきた。そろそろなんとかしなくちゃ。
要は、「一人になりたいの」と泣きわめいた朱殷が、その足で向かおうとしたのはアオのところだったわけで、これを徹頭徹尾無意識に矛盾を感じずに行動しているあたり、もう「朱殷お前何言ってんの?!?!?!?」なわけです。
崩壊が大前提な彼女なので、ロジックも端から崩壊して行くのでしょう。
3)最終奥義もしくは最終兵器としての人物
濡羽です。以上。
…え?不親切?
これを語るには別のお話になります。なぜなら私の暴走が必須だからです。そこはまた密やかにアップします。
4)おわりに
舞台のラストシーン。扉を開いて向こう側へ行くとある人物の背中で舞台は終わる。
なぜこの人物で締めるのか?
様々に思いを馳せたが、ふと。
私は、ここにようやく、生身の日疋士郎の「かけら」を見たように思った。
「この」役者は、当公演を最後に舞台を去るという。
日疋は、役者にとって至上の不可視の花を、彼に捧げのだとしたら。
舞台を一人で〆るという花を。
。。。甘いなあ(笑)。
<あとがき>
実はこのレビューその3を書き出したのは11月は霜月のこと。
刀剣女子であれば霜月騒動を想起しつつ、皇室献上物の五条鶴丸国永に想いを馳せる頃合いで、例の舞台からは2ヶ月を過ぎようというとんでもない時期。そして今はさらに2ヶ月を過ぎているとなれば、1度しか見ていない舞台について、知ったふうなことをかけるのか、貴様!と、ねじ込められても仕方がない話だ。
ところが、一旦かいた記事がクラッシュして蒸発、再筆の気力が消失。
が、句会の友人がこう宣った。
「3行で書くばよくね?」
。。。簡素って大事ですね。