書くと書かぬと、その答え

人は、とはいわずに、私は、という流れで答えを探してみようと思う。
なぜなら、人というには私はあまりに「ひと」が分からないからだ。

書くということで、その瞬間の思いをいったん固定させられる。
その「固定性」があれば、反芻も反省も、拡張も発展もさせられるだろう。

しかし、固定されていない思いは、形をもたぬまま暴走する。
茫漠とした不安は不安との形すらもたぬまま、ただネガティブな影を
心身におとしながら膨張していく。
根を持たぬ自己肯定は、やがて増上漫となり裸の王様を生み出す。

そこから生まれるのは、絶対的な孤独だ。

不安から他との縁を遮断し、
他への優越感から他との交流を拒む。
ところで、固定された思いは可視のものであり、
思いの可視化とは重い作業だ。

思いは、わたしを自由になどしないからだ。

人はどうか、知らない。
ただ、私の自由は、私を解放したりはしないからだ。

自分のCPUが乱調子であることを、私は知っている。
その指示に従えば、必ず後で訪れるのは悲しみと苦しみで、
悲しみと苦しみの支配下にある状態を、どうして自由といえようか。
それは、己の一時の欲求の奴隷であるといわざるを得ない。

だから、監視が必要だ。

言葉を紡ぐにあたり、常にその言葉がある基準からそれてはいないか、
吟味されることが必要なのだ。

その基準の下にあることで、私はようやく自由と解放を得ることが出来る。

だいじょうぶ、かみさまにあいされている
だいじょうぶ、かみさまをあいしている。

その、安心からうまれる解放こそ、世界中から拒否されていると感じがちな
私を、ようやく一息つかせ、本当は私を受け入れてくださる方々へ、
おずおずと、でも限りない信頼をもって手を差し出すことを可能とさせて
くれるのだ。

なんだけど、しょっちゅう外れては、うんうん唸っているのが現状なんだけど、ね。

ようするに、暴走する野良馬(野生の馬というより、野良馬だな)をいったん縄目に
つけるために、日記があると便利だっちゅうことだ。