新鮮組異聞 PEACE MAKER」を見に行きました。


某月某日、舞台「新鮮組異聞 PEACE MAKER」を見に行きました。

大事な友人のご子息が出演している舞台で、

前作の舞台、また映画も相当に面白かったので、チケットを手配していただいたのでした。


さて、新撰組


まあ、めんどくさい代物を、と、思いました。

史実、人物、署作品、すべてにおいて強烈な思い込みを持つ愛好者が存在し、

何をやろうが好意と同じくらい反論が巻き起こるネタでございます。


ええ。私も「燃えよ剣」を胸にいだき、土方と沖田に遥か思いを馳せたものでありました。


ところが、これが面白かった。


というか、冒頭そうでも無かったのですが、尻上がりにスーパーライジング、

えらい面白くなった。

殺陣を照明技術で表現するその技法、

舞台を高台と板場にわけ、二重画面のように仕立てるその構成、

それ自体も面白かったのだけれど、注目すべきは座長の聖也くんのあり方でした。


18歳の座長です。


エッジが立ちまくりの新撰組各キャラが、個性爆裂させていくのを全く阻まず、

おれがおれがと表面に出てくることも無く、

こんな普通でいいのかと思うくらいの存在感。

各キャラが徹底的にデフォルメされていることを尻目に、

聖也くんの新之助は、あくまで4、5等身の小学生年齢のこどもが、

わーわーと騒ぎ、かかかかかっとご飯をかっ込み、泣き、笑う、そのリアルさを表すためのデフォルメでした。


これは。


かつて、平井和正が、高橋留美子の作品世界を評した際、

ラムとしのぶの描かれ方の差異を示すことで、その作品の構造を説明したことを思い出しました。

ラムはこの世界の女神であり世界の基であるゆえに、デフォルメされすぎることはない。

それは不可侵のものであり、基が浸食されることがあれば世界が崩壊するからである。

一方しのぶは、周辺キャラでありどう崩れようが作品には影響を及ぼさない。

作品の中には必ず聖域とされるキャラがあり、そこが命なのだ、云々。


とあれば、知って知らずか、聖也くんは舞台の基をしっかりと置かれたのだと、

そしてそれにふさわしい在り方をしているのだと、わかりました。


なにより。


クライマックスの一言、

「死なせねえぞ!』


この台詞を叫んだその瞬間に、それまでの盛り上がり、ストーリーの勢い、パワーが、全て聖也くんのモノとなったのには驚いた。


良い作品には、必ずキモとなる一言があります。

それは、作品のいのちの具現です。


あの作品のあの一言にしびれたよな。


こういったときに、「あの一言」が、万人に共通したものであれば、その作品は、名作と語り継がれる可能性が大きいと確信しております。

そして、その一言をモノにし、作品にいのちを吹き込むことこそが、スターである者の証。


聖也くん、見事にやってのけました。


私の友人が、聖也くんは花がある、といっていましたが、私は今、少し違う感想を持っています。


彼は、共演者の花を咲かせる、舞台の底上げをする力がある。

むやみやたらと表面に出てこない。

ガラスの仮面じゃありませんが、舞台荒らしの反対側にいる役者です。

しかしながら、最後にはきっちりと仕事をして己の役どころがすべき役割を果たしていく。

その上で、

一人勝ちすることなく、全員で舞台の成功へとなだれ込ませる「巻き込み力」を持っている。


主役であろうと、脇役であろうと。



というわけで、次回作、青山円形劇場の作品も、友人としっかり見に行く約束を取り付けているのでした。