春ニシテ、貝割レ菜ヲ思フ。ー俳句ー

 「季節の句」について書く、というお題をいただいたのはンヶ月前。
うだうだしているうちに季節は巡って春となり、春が苦手な私はウンウン唸り、
ああでもないこうでもないと踏鞴を踏んでいるうちに春は過ぎていきまして
(狙っていたんじゃないかと言えばその通り)、やっと落ち着いたところです。
 
咲き誇る桜や愉しそうな人々は綺麗すぎて、どうにも気後れがするのです。
「春?ああ、行っちゃいましたか」と、惜しむくらいが丁度いいのです、ええ、渋茶でもすすりながら。ずずっ。
「花を踏んでは同じく惜しむ少年の春」…いいこというなあ、白居易
 
そして、ようやく書きましたのは、秋のこと、それから季節の俳句に対する想いの2つ。
 
=SIDE A=
 
句会に参加して1年が過ぎた頃、会社帰りの中央線の中で出逢った句に、
ぐっと息を呑みました。
その句が写した景色の清浄な美しさに辺りの音が聞こえなくなり、
ひたすらに味わい尽くそうとすれば身じろぎすることも出来ず、
あげく終点まで乗り過ごすこととなったその句は、川端茅舎の手になる作。
 
「ひらひらと月光降りぬ貝割れ菜」
 
ただこれだけの句です。
細く柔らかな貝割れ菜をじっと見ていたら、ふと、かすかな風に貝割れ菜が揺れたのでしょう。
その双葉はひらひらと薄羽の羽ばたきのように揺れたのでしょう。
ただそれだけの景色です。
ですがこの時、茅舎の目によって風は幾ばくかの質量を得た月光と置き換わり、
月の光と小さな葉たちの間に直接のふれ合いが生まれた時、
天の月神が、地のあどけない菜に慈愛を注ぐ、恵みの世界へとその様を変えました。
 
これは一つの浄土です。
 
月の白い光と貝割れ菜。
誰の日常においても容易に手に入れられるこのモノ達は、浄土がすぐ側にあることを示しましょう。
たかが貝割れ菜ですから、ここには読者に踏鞴を踏ませるような威圧感はありません。
その景の中に佇むことはどうやらあっさりと許されそうです。
 
ただし、定員はひとりきりです。
 
誰かと一緒に入るには、この世界は密やかすぎるのです。
人の呼吸にすら震えそうな貝割れ菜と、その貝割れ菜を愛する月によって現れたこの浄土は、
二人分の質量を一度に背負えそうにありません。
 
ひとりずつ、ひとりずつです。
読んだ人だけが中へと招かれ、恵みの光を浴びることができる、それはそれは親密な優しい世界であるのです。
あなたがとりわけ大事な存在なのです、と、言われているようではありませんか。
 
八王子を出発し、吉祥寺辺りでボロボロ泣いている自分を見て、
周りの人は何だこりゃと思ったかもしれませんが、
ハンカチ2枚目に突入する勢いは止まりません。
感動と絶望が、一度に来たからです。
その清らかさに心が震えた感動、自分が求めていた世界がここにある、という感動。
そして、
自分が現したかった世界が既に他者によって完璧に展開されていた,という絶望。
 
・・・・・
それから数ヶ月,茅舎の句はある意味で私の人生を変えました。
ちょっとだけ、仰角25度くらい。
出逢えて良かったと、心から思います。
・・・・・
 
=SIDE B=
 
涙が出るほどに慕わしい風景が、誰にでもある。
息が出来ぬ程圧倒される景色や、
胸が痛くなるほどにあどけない情景も。
 
私たちの生まれた世界は、そんな宝物を春夏秋冬折々に、ふいに披露してみせる。
 
春の、八重二十重に轟々と舞い踊る桜吹雪を、その中空を見上げる赤ん坊の瞳を。
夏の、影さえ光る真白な入道雲の峰を、その下を駆けてゆく少年の汗を。
秋の、赤に緋に、紅に黄金にと燃え盛る錦繍の紅葉を、その葉を浮かべ重ねる酒杯を。
冬の、刀刃の如く怜悧な月の光を、その光のもと深蒼の影を落とす雪を。
 
宝物を留め置きたいと思うのは誰しも同じ。
 
しかしながら常にカメラがある訳ではなく、その様を写し取る画力が備わっている訳も、
音楽に落とし込む才も無い。
詩やエッセイ、小説にする程の長文統語能力も語彙もない。
だけど僕にはピアノは無いしビンボウヒマなし恋人も(以下自重)
 
それでも、この情景を、この気持ちを残しておきたいと思う時、
そしてあわよくば誰かに伝えたい、と願う時、
わずか17文字が、それを可能にしてくれことがある。
 
何もいらない。
スペースも時間もいらない。ペンと紙きれ、今時ならスマホ、それもなければアタマの片隅で、
5・7・5の17文字に気持ちを詰めこんでみるとのいい。
いっそ季語すらなくてもかまわない。
生まれた一句は、間違いなく、その風景をあなたの人生にぽちりと留めてくれるだろう。
そのようにして留めた記憶が失われることは、そうは、ない。
 
生まれた時と死ぬ時は裸一貫で、何一つ死の床まで持っては行けない。
記憶もおぼつかなくなり、覚えていられることも限られよう。
それでも。
たかが17文字であれば意識の片隅にかつかつ置いていられよう。
最期に呼び起こした記憶のカケラは、こうも慕わしいものたちと出会えたならば、
「人生はそう悪いことばかりではなかった」と、
穏やかに心を慰めてくれることだろう。
 
そのような17文字に出逢えれば、
そのような17文字を詠むことが出来れば、
 
世界はこんなにも美しかったのだ、と、感謝できる。
 
と、思う。
 
ともあれ。
 
最高に手軽で最高に短時間に着手できて、最後の最後までもっていける記憶のカケラとしては、
特Aランクをつけていい、使える機能を持つシロモノではないか、と思うのです。
俳句というものは。