【プロミスト・ランド】所感、その2。

 既に10月。

 

 舞台のdetailを忘れだす頃であり、その分記憶が濾過され妄想が暴走している頃合いである。

 小劇場の舞台の観劇は、時に命懸けである。大劇場であれば物理的に距離があるので「肉迫」感をこちら側でコントロールできる部分があるが、小劇場だとそれが難しい。己の価値観との競合や共鳴、違和感などの翻弄のあげく、帰宅してから寝込むことすらある。

 それは舞台に限らず、行事やイベントでもそうなのだが。

 

 

3.「アヲ」のカウンターパートとしての「朱砂」

 

 アヲと朱砂は「似た者同士」ではなく、決して相容れないカウンターパートだ。

 朱砂は才能がまずあってdistortionがある…というより才能とdistortion同時多発テロを起こしている存在であり、アヲは先ずdistortionありき、その反作用つまり生き辛さによる強い内圧の暴発としての創作者なわけで、根本的に方向性が真逆だ。

 彼女は実のところ何も困ってはいない。接触アレルギーやコミュ障について、ちょっと不便だなあくらいは感じているだろうが、「ま、でも、絵描けるからいいか。」、だ。部屋の外で核弾頭が飛び交おうと、閉鎖病棟に隔離されようと、絵筆とキャンバスがあれば問題ない。アレルギーで倒れた後も回復したら恐らく何事もなかったかのように絵を描くわけで、例え朱殷が出ていこうが、泣いた後で「よく泣いたなあ、じゃ、ちょっと絵を描くか」となる人種だ。他に何も無くても、何も知らなくても、彼女にとっては全く苦ではない。幸せな視野狭窄の中に、彼女は存在している。

 …芸術に愛されたtalentの持ち主のありようについて、曽田正人はバレエ漫画「昴」の中で、プリシラにこう語らせている。 

【『バレエ界のことも、世界のことも、どこかで起きている戦争のことも、夢中の前では何も考えられない。

今、私は世界で最も視野の狭い37歳かもしれない。

それは幸せなこと。

一途に突き進める道の途中では、一切の迷いはなくなる。

視野の狭さは、夢中を生きる者の特権だわ!!」(8巻より)】

 14名の中で実は「約束の地」を必要としていないもの、すでに「絵を描く」という形で手に入れている存在。それが朱砂である。

 

 一方アヲは。

 己の生き辛さからくる暴力的内圧の矛先としての創作が開花した存在で、これもある意味稀有なサンプルではある。大概は開花など必ずに朽ち果てるのだから、恵まれていたといえなくもない。

 ただ、アヲの困難さというか面倒臭さは、アヲ自身をそれを自覚しており、「Distortion→内圧→創作→結実」という図式を確信犯的に手放さないところにある。原動力としての生き辛さに耽溺する己の業に歯噛みしつつ、そこからくる自己損傷衝動からの一時的な救いを求めるという矛盾構造に居座り続ける。「病床利得」と言ってしまえば安直だが、アヲは己の存在感全てをもってして周囲に無言でアピールし続けるのである。密林に住む、派手な色の毒カエルのように。「自分に気をまわせ、自分を見ろ、だが触れてくれるな」、と。

 なので、アヲは「文を書ければそれでいい」にはならない。病状、コミュ障、己の作品の出来…全てに苦しみ続けることを自ら欲するわけだ。まるで贄のように。その意味で、芸術家というよりは技能者に近い。

 アヲは、朱砂に憧憬、そして憎しみすら抱くのではないだろうか。

 そして朱砂は、アヲについては絵筆を持った瞬間に忘却するだろう。

 創作者としての二人のカーストが顕れていたのは教室でのアヲと朱砂のファーストコンタクトの場面であろう。二匹の野生動物の接触に例えればわかりやすい。まず弱者が腹を見せ、次に強者がそれに応える。図らずもアヲと朱砂の優劣が暗示されていた場面であり、アヲに朱砂との断絶を決意させただろう瞬間である。

 

 朱砂はその圧倒的才能の故、奇矯であることを主張する必要がない。だから、ラストシーンで展示された朱砂の作品は正統派の高レベル絵画だった。一方、アヲの作品は「変な人」系であることに、アヲの必死の「逸脱存在であることの表明」が見て取れる。

 

 

 アヲに対して辛辣?

 まあ、そうですよね、ふふふ。

 

<中休み>

 日疋氏とアヲを同一視もしくは分身と看做して「プロミスト・ランド」を見ることは、安易だが危険だ。そんなことするとですね、日疋氏の狙い通りというか、罠にはまる。 

 もっと違う何かなんですよ。これ。

 「僕は、永遠に生きたい。」

 アヲのセリフの一つですが、じゃあ、月イチのあれやこれやら、ジェラシーやら計算っ子的なところとか全部ひっくるめてでもいいんだな?と問うたら絶対イヤだ!と叫ぶだろう、アヲは。

あれは、「月が綺麗ですね」と語意的には違うが用法上では同じものだ。

 欲しい欲しいといいながら、差し出されたらぬるっと躱すアヲなのだ。