音読不毛のニッポン

今でも、小学校では教科書の音読をさせるのだろうか。

素読や音読は、本来豊かなもののはずで、

口を動かして滑舌を鍛え、
喉を鳴らしてカラダに響かせ、
で聞いて記憶中枢を刺激し、
目で追うことで意味と音と言葉を関連付け、

何よりも聴衆(時には自分だけのこともあるが)の反応を楽しめるものだったはずだ。

けれど、私は音読に、すっかり冷めてしまった。

抑揚をつけて、言葉を楽しみ、
緩急つけながら工夫して読めば読むほど、
クラスから浮いてしまうのだった。

小学生の音読は、棒読みを旨とするらしく、
次第に、同級生から、からかわれるようになった。

だからわざとヘタクソに読むようになった。
それでも抑揚が付きそうになるので、
文章の最後に心の中で
「まる。」
と言うようにした。

そうすると、上手い具合に棒読みになるのだ。

あんなつまらない音読を学校中に蔓延させるのだから、
なるほど、日本では、詩の朗読をたのしむといった文化が消えていったわけだ。

わずかに残る囲炉裏端での昔語りなど。

囲炉裏も消えた今では、

ようやく、iPadがその役を務めるのだろうか。