きっと忘れない日曜日~福島菊次郎おじちゃんと~

10月23日、日曜日。
その日は19時に福島おじさんと会う約束を頂いておりました。

福島菊次郎。
伝説の報道カメラマン、孤高の人、異才の彫金師。

私にとっては、母の恩人で仲人で、お正月に遊びにいくと毛蟹を一杯ずつ
子供達にご馳走してくれて、なんだか変わった面白いおじちゃんでした。

長じてからその、激しさと凄まじさ、その影響力を知りましたが、
その頃には私は心身病んでいて、おじちゃんと会うことがかないませんでした。
また、おじちゃんも無人島に入植を果たしており、そうそう会える機会も得られなかったのは、
私だけではなく母も同じです。

昨年8月、おじちゃんが個展を開きに上京。
家族で見に行き、ようやくおじちゃんと会えたその喜びは、重みは、
いっそ感動といってもよかったかもしれません。

90歳を目の前にして、これだけのことを!

そのおじちゃんが、再び3日間だけ東京に来ることになりました。

写真集「鶴の来る村」が賞を取り、授賞式に出席することになったのだといいます。
また、いくつかのドキュメンタリーの撮影が終了し、また始まるその準備に
少しはなしを詰める必要があったようです。

忙しいスケジュールの合間を縫って、母と私に会いたいといってきてくれたのは、
嬉しいというより驚きで。
母は心臓手術の術後がイマイチで、いけそうに無いから貴方が一人でいってらっしゃいと言われたときは、
嬉しいというよりビビリが先に立ちました。
2人で会ったことなど一度も無いのですから。
話を聞いてから1週間、ズラカロウかとも思いましたが、次第に、おじちゃんの話を、
存在をただ頂きに行こうと思うようになり、次第にデートを待つ乙女(笑)のような気持ちになり、
そして当日。

激しい人生を生き抜いてきたおじちゃんは、どんなお話をしてくれるのか、
どんなに熱く語るのか、と思いました。

直前に福島へ行き、久しぶりにカメラマンの血が騒いだようだ、とも聞いておりましたので。

また広報カメラマンと大嘘ついて、自衛隊の内部写真を撮影し、
いよいよというときに嘘がばれた時、こんなやり取りを展開したと自著に著した人でしたので。

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「これはどういうことか」
防衛庁広報課長は僕を睨みつけて、まだ青焼きの校正刷りを机の上に叩きつけた。青焼きが防衛庁の手に渡っていることに驚いたが、写真をゆっくり1項目から見終わってから答えた。
「『現代の眼』に入稿した兵器産業告発の写真です」
真っ赤になって立ち上がった課長は机を叩いて叫んだ。
「コメントは誰が書いたのかっ」
「僕が書きました、憲法違反の自衛隊を告発するコメントです」
「貴様っ。よくも騙したなっ、貴様のような大嘘つきの非人間的な奴は見たことがない。すぐ原稿を撤回して来いっ」
 すごい剣幕だった。落ち着かなければと気持ちを押さえ、コメントを読み始めると、「落ち着き払って何だ、貴様っ、それでも日本人かっ」と罵詈雑言を浴びせかけられ、僕も激昂した。
「僕は日本人ですが、あなたとは違う日本人で、この国の憲法を尊重するジャーナリストです。九条を侵害して再軍備をした犯罪的な自衛隊を告発するのが僕の仕事です。嘘を言って撮影したのは詫びますが、自衛隊こそ大嘘を言って国民を騙しているではないですか。公務員は憲法を守る義務があります。発表は絶対止めません」。
「どうしても止めないかっ」。脅迫的な言葉が頭の上から落ちてきた。カッとして叫んだ。「どうしても止めさせたかったら、僕を逮捕して刑務所にぶち込みなさい」。

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すると、

それはそれは、
牧歌的な中国地方の片田舎にあるマツタケ山への遠足のお話や、
そこで供された日本の田舎の手厚いもてなしや、
田んぼの藁山にもぐって鶴を待ったお話や、
家族のこと、写真を目指したときの奥様とのやりとり、
そんな、血の通った、暖かい、たわいもないようでいてきらきらと光る、
優しいお話を、ゆっくりゆっくり、とつとつと語ってくれるのでした。

そして、ようやく言い出せるといった風情で、こう語りだしてくれました。

ぼくが、どうして、おかあさんときみに逢おうかと思ったかというとね、

全部ぼくに、いったん話してごらん、といいたかったからなんだ。

この間お母さんから長い手紙をもらって、

いや、これまでにもたくさんもらって、

君達にいろいろあったことを知っていたんだけど、

そのころは自分もあっちこっちに行ったり、狙われたり、
無人島にいたり、病気をしたり、なかなか声をかけられなかったんだけど、

今は大丈夫。


・・・と、そこから、結局またおじちゃん自身の話になったんだけど(笑)


私は、最初は、この時間をどう過ごそうかと思いました。

まず、ただひたすらおじちゃんのお話を聞こうと思いました。
そして、この時間を味わいつくそうと思いました。

ですが、その全てが、少し間違っていると気づきました。

それら全ては、私とおじちゃんの間にあるつながり、道に
注目しているだけであって、道を見て山頂を見ていないも同様だったからです。

最後に私は、目の前にいるおじちゃんをそのまんま、真っ直ぐ見つめて、
真っ直ぐに心を向けていました。


結局この日の時間のこと、私の中で消化しきれていない。
それほどに、貴重、ありがたくて、神聖なものでありました。

おじちゃんという命が、私という命に、イノチを注いでくれたような、

そんな日曜日の宵でした。

もうじきおじちゃんから、3本のビデオが届くはずです。

1本は、半世紀は前、200本収穫したというマツタケ山への遠足をおじちゃんが8ミリで撮影したもの。
1本は、海外のドキュメント、
もう1本は、地方局が作成したドキュメント。

母も私もそれを心待ちにしているところです。