罪を問う、ということ。
いじめ事件。いじめた側の親子の写真をブログに上げたタレントがいたらしい。
…
他人の罪を糾弾する前に、自身の中にも確かにある罪、残酷性、程度の差こそされ行ってきた行いを思いお越し、深く悲しむことがまず必要だと思う。
彼らとわたしの間にどれほどの差があろうか。
わたしも強烈ないじめを受けた。また、いじめに加担はしなかった。
でも状況がそろえばわたしも右にならえであったのではないか。
いじめが楽しい、悪くないと暗黙のうちに教唆される環境にいたら?
これまで、人から痛みを与えられなかったとしたら?
罪を犯さないでいられただろうか。
そのような者だ。
人は。
罪を問わないということではない。
「あなたは、どこにいるのか」ということだ。