罪を問う、ということ。

いじめ事件。いじめた側の親子の写真をブログに上げたタレントがいたらしい。



他人の罪を糾弾する前に、自身の中にも確かにある罪、残酷性、程度の差こそされ行ってきた行いを思いお越し、深く悲しむことがまず必要だと思う。


彼らとわたしの間にどれほどの差があろうか。


わたしも強烈ないじめを受けた。また、いじめに加担はしなかった。


でも状況がそろえばわたしも右にならえであったのではないか。


いじめが楽しい、悪くないと暗黙のうちに教唆される環境にいたら?


これまで、人から痛みを与えられなかったとしたら?


罪を犯さないでいられただろうか。


そのような者だ。
人は。


罪を問わないということではない。


「あなたは、どこにいるのか」ということだ。