岡林里依 自選展。
2月のとある日に。
水曜日、
水辺を歩いて、
水から生まれるモノたちのところへ行った。
「徳の蔵」。
長野飯山で時を過ごした古い蔵、それが三宿の地で新たな生を得ている今、
此処で岡林里依さんの個展が開かれている。
小さな体で途方もなく雄大な墨のアートを、いとも鮮やかに産み落としていく里依さんが、
エッセイと書と手頃な大きさの作品たちをメインに展示するのは、今回が初めてのはず。
墨も、紙も、水に産み落とされしもの。
そんな感じのことが、エッセイにあったっけ。
つい先日、いつか見ようと思っていた里依さんの作品が、ロシアに終の住処を得たと知った。
……逢える時には、逢おう。
人とも、物とも、作品とも。
重くなりそうな腰をうまいことそそのかしてみたところ、天は我を見放さざりってなもので、
この日はぽかぽか小春日和のIndian summer。
はいほー、はいほー、てくてく小川の遊歩道を行けば、少し不安になる頃合に徳の蔵に辿り着く。
分厚い一枚板が時と人の掌に慈しまれたまろやかな扉となって、眼前に佇んでいた。
脇にはぴかぴかのポンプが水を汲み上げられるのを待っており、
水盤には赤い花がぷかぷかと愉しげに浮かんでいた。
何やら楽しいぞ。
蔵の中に入ると、もう一輪の花が笑顔でふんわりとこちらにやって来る。
「ようこそ、いらっしゃいました!」
里依さんのハグは充電機能があるのでここぞとばかりにぎゅーっとしがみついておく。むぎゅ。
それから、一歩、作品に近づいた。
そして、ひたひたと流れ、よせてくるものにゆっくりと浸されていった。
親が、生まれてきた我が子に寄せる、少しマジメで少し前のめりで、それが少しおかしくて、いじらしい、「夢」。
女体をイメージしたとのことだが、抱えていた荷物を2つばかりおろし、そおれ、と軽々泳ぎだす若鮎にも見えた、「心」。
美しい龍を書きたかった、とのエッセイの対にあるのは、短距離トラックを走り抜けていく少女を思わせる、初々しくしなやかな「龍」。
その横には確かな造型で、龍に、さあ道を創りなさい、行きなさいと進ませる、「翔」。
けはい、と読みたいと里依さんはいう。
生きることは数多の音色が重なり合い響き合うこと、それは例えば厨にいればわかることで。
(にんじんにんじん、だいこんだいこん。)
そんな、モンゴルのポリフォニーにも似た、「音」。
字の持つ本来の意味と裏腹に、その字をイメージさせてくれた人と逢えることがわかった里依さんのワクワクが、
なんとも正直に溢れてしまって、踊り出した、「凛」。
溢れ、浸し、満たし、潤わせ、己が形にとどまることに縛られぬ、「水」。
「水」の対面には、互いに循環しつつ浄化と生成をくりかえす豊饒なる、「土」。
人の身体の腱でできたかのよう、じり、と、心に迫り来る、「生」。
そして、里依さんは、時に「いろは」に戻るのだ、と、言う。
その彼女の言葉と作品の道行きも終わる時、
蔵の壁を覆うほどの大きさで、
蔵の壁を覆うほどの大きさで、
ここから彼女のアートが始まったという、下書き無し、里依さんの最初の一滴。
その作品が、泰然とわたしを迎えてくれたのだった。
………………
「里依さん、『花』は?」
その日、「心」と同じくらい楽しみにしていた書が見当たらなくて、問うてみると、
里依さんはにっこり笑って、無いのよねえ、と。
里依さんはにっこり笑って、無いのよねえ、と。
いろいろとあって、と。
そしてまた、にっこり。
そしてまた、にっこり。
そうか。
秘すればこそ、か。
遠くで、鼓の一打ちが聞こえたような気がした。
では今は、遥か、見えない花を思おう。
そうすれば、直に、春だ。