梅花茶會 ~その2【中国茶席】~

抹茶席の茶室を出て廊下を渡り、書院に入る。
と、そこは白梅の世界だった。

中国茶の師であるナオコ先生はその中で柔らかく泰然と、
客を待っておられた。

様々な色調の白が使われた書院には中昼の日差しが入り込み、
刻々と日のあたる領分が増えていく中で、
日本の茶から台湾の茶へと渡りを済ませた客達は、順に腰を落ち着けていった。

この日呈されるお茶は中国茶の中でも緑茶に近い文山包種茶、その40年物。

以前、90年物のお茶を頂いたがそれは発酵茶のプーアール、
発酵度の低い文山包種茶がどのような佇まいになるのか。わくわくしながら迎えたこの日。

まずはご挨拶にと供されたのは、ノーマルな文山包種茶。

茶葉に湯を注げば、つい、と立ち上る鮮やかな香りは青龍の如く、
軽やかに勢いをもって辺りを駆け巡る。

掌にすっぽり収まる小さな茶壺から、魔法のように何人分もの茶は溢れ、
小さな茶杯を受け取れば、その薫りはひたひたと鼻腔を撫で、
口に含めば爽やかに甘く、そしてふい、と、潔く味が切れていく。

この鮮烈さが真骨頂だと、いつも思う。

部屋の隅には師の郷里から運んだという、梅の枝。
朝には堅かった蕾はようやく綻び始め、時の経過を伺わせた。

白、という色は死と再生、そして浄化を想起させ、時に緊張を強いるものだ。

しかしこの空間は、柔和な白を取り揃えてあるせいか、居心地がとても良い。
生命の流れとはあるべきところからあるべきところへ流れていくもので、
それは何も力んで乗り越える物ではないのですよ、と、諭されているようで。

そして、40年物。

老茶は、懐深く分け入っていくもの、と思うことがある。

先ほどの文山包種茶は、茶の方から飲み手を魅了しに来る個性と強さを持っており、
こちらが呆けていても感覚をドヤしにくるような、圧倒的なチカラがある。
一方老茶は、時の流れにその刺激も薫りも味もまろやかに、ひそやかに、かすかなものとなり、
こちらから分け入って、問いを投げかけてみるような茶ではないだろうか。

一杯、頂く。
香りを探れば、遥か彼方、遠く遠くに、梅、プラムの香り。
口に含めばさらさらと、味も香りも有るか無きかのささやかさで、それを捉えようと目をつぶる。
と、ふい、と、元々の茶の持つ華やかさの名残が立ち戻ってきた。
なんてコトをあれやこれやと思っていると、

ふふふ、まあ、そう深く考えなくても。

と、臈たけた仙女に、微笑まれた気がした。

顔を上げると、客のお仲間ものんびりといい顔になっておられる。
この日は丁度バレンタイン、お茶菓子にはハートがそえられ、
「こんな日にわざわざお越し下さって」
という、ナオコ先生のお茶目が嬉しい。

茶も笑顔も溢れるばかり、たっぷりとしたひとときが続く。

体を温めるという老茶は、心身も周囲とのご縁も温めて尚、有り余るものだった。

・・・・・・・・・

そして、茶席で知り得たこと。

茶杯を受け取れるのは、こちらの手が空の時。
茶が注がれるのは、茶杯が空の時。
人を待てるのは、心が空の時。
人を送れるのは、執着が空の時。

だから、空っぽっていいもんだなあ、
と思う。

同様に、貧しいのもいいもんだなあ、と思う。
物を知らないから、経験が無いから、貧しいから、
1回の体験をこよなく貴重なものとして、味わい尽くそうとするのだから。

ありがとうございました。


・・・・・・・・・
余談タイム。

しかし。
ナオコ先生の手って、どうしてあんなに美味しいお茶が生まれてくるんだろう?
いやどうしてもこうしても、経験と格が鳳凰とミジンコくらいに違いますけれどもね。

私が文山包種茶を入れた時は、青龍どころかオタマジャクシも出てこなくて、
花の香りどころかペンペン草も生えず。ぐぬぬ

それを、水屋で立ち働いておられた姉弟子たる先輩に、「おいしいお茶がいれられなーい(泣)」と
コボしてみると、微笑みながら「大丈夫、これから、これから♪」とあやされた。

・・・中国茶師養成ギプスとか、無いんですかねえ。

そしてさらにもう一回分くらい書くと思う。その3エピローグ。