老茶。
90年物のお茶を頂いた。
その日は中国茶のお話を伺いに、冬の灰色の空の下、
初めての町に行き、初めての駅に降り、初めての方と出逢うことになっていた。
迎えてくださった美しい茶禅の先生は、ふわりと微笑んで、
今日はとても珍しいお茶があるので、頂いてみましょう。
そう仰って、掌にすっぽり入るほどの茶の包みを取り出された。
年に一度のお茶会があって、師が分けてくださったのです、と。
実に、大正時代に作られた茶である。
そこまで長く熟成させる物なのでしょうか、と伺うと、
いま台湾の茶人の間で流行っている飲み方で、
蔵や倉庫から偶然見出された年を経た茶を「老茶」といい、
過去に想いを馳せながら茶のもたらす時間を共にするのです、と。
つまり「老茶」とは人が狙って作った物ではなく、
時間と場所が気まぐれをおこして茶に時を超えさせ、
たまたま人の眼前に現れてくれたもの。
市場にでることはまず無く、再び同じ茶に出逢えることは決して無い。
そんな「老茶」がここにある。
時を越え、
国を越え、
海を渡り、
集まりから集まりへ
人から人へ、
手から手へ。
長い旅をしてきた茶は髭を蓄えた好々爺のようで、
全ての苦渋を遥か彼方に置いた枯れた味となり、
赤子や老人、病人までも呑めるほどの穏やかな成分へとその身を変容させ、
茶の味よりいっそその茶を入れた水の味を遠くに感じさせるようで、
まあ、肩の荷を降ろして休んでお行き。
と言ってくれるよう。
茶が放つはずの秀麗な香りはもはや失せ、
田舎の蔵を思わせるような、
おばあちゃんの鏡台をあけたときのような、
埃の、でも、決して不快ではない懐かしい香りが、
口に含んだ時にかすかに鼻梁に抜ける。
日は傾き、室内は自然に夕方の色合いに。
先生はその夕暮れ色の中、茶の魅力を静かに語ってくださる。
・・・老茶に絆され、つい、長居をしてしまった。
90年間、飲まれなかった茶である。
茶は、途中、失望したりはしなかっただろうか。
一生飲まれないのではないか、と。
絶望したりはしなかっただろうか。
いつか捨てられるのではなかろうか、と。
でも今、ここに、一つの縁を、「老茶」として生み出している。
自分の期待するタイミングで全てが訪れるとは限らない。
自分の期待することが全て良きこととは限らない。
静かに時を受け入れること、それもまた、力。