『学びのムコウ』ー高級中国茶アドバイザーになれたことー

 

 

5月末日。

半年余り備えてきた「高級中国茶アドバイザー」試験を受けてきました。

 

簡単だった、とは言えません。

 

経験豊かな人であれば、それほど七転八倒するものでもなかったのかもしれませんが、

ふんわりと未熟な茶の経験しかない私には、初級、中級をふまえて尚半年の学びが必要で、尚、まだ足りないなと思えています。

 

自分から先生に学びの指導をお願いしたくせに、本来の「茶禅」の考えから離れているかもしれないし、こういう形で「学ぶ」ということは道から外れることになるのだろうか、と案じ、立ち止まりそうになる時もありました、が。

 

「道から外れそうになったら、導きますから大丈夫ですよ」

 

と、前に進むことを許し、手を引き、見守ってくださった岩咲先生。本当に感謝しかありません。。

 

先生が、「お茶を嫌いにならなければいいけれど」、と、冗談交じりに言うほどに必死になって学んだ日々の果て。

わたしは、前より、ずうっとずうっと、お茶が好きです。

 

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すごいんですよ。

お茶、どれだけ種類があるか、知っていますか?

幼い頃にわくわくしながら学んだ世界史の、裏打ちをするように息づいているお茶の歴史、知りたくないですか?

茶、水、器。それだけなのに、どれほどの香りと味が溢れ出すか。

どれほどの人の工夫が込められているか。

それほどの天の滋意が注がれているか。

どれほどの地の命が育んでいくか。

 

虫や微生物までも味方にしながら、

泥や土、窯までも巻き込みながら、

手のひらに収まるほどのあの茶壺(急須)から、

蓋碗から注がれた茶の一滴が、

千もの色合いにグラデーションをあやなしていく様、

見たくないですか?

 

 

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試験当日。

やっぱり緊張したのか、筆記やテイスティングでは、わけがわからないようなマチガイもしでかしました。

でも。

 

実技の茶芸のとき。

何だかわたしは、今まででも指折りの、静かで、無心なお茶を淹れられたように思います。

 

仲間と、評価者の方と、その場に入ることが幸せで。

いい時間になるといいなあ、とだけ、思ったことは覚えています。

 

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翌々日。

同時進行していたもう一つの学び、職業訓練専門学校の卒業式後のランチの時に、合格を、知りました。

 

静かに、静かに喜びを噛み締めました。

 

「うわあああああ、ちょちょちょちょ、受かったああああああああああああああああ!!!!!!!(ビシバシビシバシ)ねえねえ、ほらほらああああ(ゲシゲシ)」

 

え。叫んで暴れてた?

 

気のせいです。気のせい。

 

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なぜ試験を受けるようになったか。

 

人は、「資格が欲しかったのだろう」、「目に見える形にしたかったのだろう」、「勉強がすきだったのだろう」と、様々な方向で判断しては、わたしに、そうだろう?と問いかけてきた。

 

が、いずれも、違う。

いずれも正解の一部だが、本質ではない。

 

それを、その私の思う「本質」は、どんなに説明しても、不思議なことに私の思いはいつでも自分と相手の間にある何らかの隙間に吸い込まれ、切り刻まれ、ついぞ届くことはない。

 

それはきっと、私がこれからこの掌の中で、そっと磨いていくものであろうことなのだ。