大きな声では言えない本のこと。〜山田五郎氏とこやま淳子氏共著の、あの本〜

 


「ヘンタイ美術館 」山田 五郎 (著), こやま 淳子 (著):ダイヤモンド社 http://www.amazon.jp/dp/4478066086

 


絵に描いた餅は喰えないが、 絵を描いたヘンタイは相当オイシイ。知識的にもネタ的にも。

 


かつて、とある伝説的な連続講義があった。 都内某所。 聴衆の数は回を重ねるごとに増し、 最後には驚くほどの熱量で教室中が狂乱の渦のただ中へ、 叩き込まれた、という。

 


(※事実1.5割増)

 


「ヘンタイ美術館」。

 


画家はヘンタイか?

 


然り。

 


では、 誰がどのようにヘンタイなのか? 誰が最もヘンタイなのか? どんなヘンタイ画家に、あなたならなりたいか?

 


レオか?ミケか?マネ、モネ、それともクールベか?

 


いや、ドガか?ドガなのか!?!?!?

 


それを語る講義というから、こちらとしては、 そこそこの知識とそこそこの好奇心、 そこそこのコワいものみたさとそこそこの笑いを求めて、 そこそこライトな感じで参加したわけだ。

 


だって、メイントーク山田五郎氏だし。(←バラエティに出たりこだわりモノの話をする人、程度の認識) サブにひかえるのはこやま淳子氏だし。(←マンガ好きなコピーライター、程度の認識)

 


さあ、楽しむかっ。

 


とばかりに、遅刻しながらも会場のドアをあけると、 なぜか聴衆がみな、生ぬるいというにはあまりにがっぷりと、 熱いというにはあまりに「困惑」の色を交えた、 いわく形容しがたい表情でステージを見つめているのに驚いた。

 


山田五郎氏の圧倒的な美術知識が、言葉の弾丸となってスライドとともに噴出する。 「★曜美術館」の穏やかな語りとは次元が違う。 静かに逆上していくその語りに、こやま淳子氏が、しれーっと言葉を挟む。

 


的確かつ緻密な歴史的背景と芸術との関連性、 その説明が驚くほどにこちらの脳にしみとおってくる。

 


・・・「ヘンタイ」「エロ」「萌え」「中二病」の言葉とともに。 その「正史」と「裏史」の化学結合は恐ろしいほどに私の意識を、 吸着し、引っ張りまわし、はやしたてる。

 


気が付くと、紙も裂けよ、呼べよ嵐とばかりにノートを激しく取りまくる私がいた。

 


なんだ、この人(注:山田館長)は。 ただの○○じゃなかったのか!!!

 


なんだ、この人(注:こやま弟子)は。 ただの◆◆じゃなかったのか!!!

 


なんだ、これ。

 


うわーーーーーーーーーーーー!!!!!!! おっもしれーーーーーーーーーーーー!!!!!!!

 


・・・

 


講義が終わる。

 


知的ゾーンから解放された後の虚脱感に身を任せながら、 頭の中は帰宅後のことを考える。

 


帰宅後。 家じゅうにある美術書、歴史書をひっくり返し、山田五郎氏の授業の検証に、 麻薬患者のごとく没頭した。

 


・・・・

 


という、オソロシクも魅惑に満ちた講義が、本になった。

 


ぜひ、電車の中で、本屋お仕着せのカバーなどかけず、 レリゴーレリゴーなありのままの状態で読もう。

 


そして、そんなあなたに温かい目を注いでくれる人がいたら、 きっとその人は同好の士だ。

 


ぐっとサムズアップして、語り合おう。

 


「君は、結局、誰が一番ヘンタイだと思う?」

 


・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 


しかし、この本がモノクロで良かった。 この表紙で中がカラーだったら、仮にこの本を落としたとしたら。 いったいどうすればいいのかわからない。

 


何より、人を最も酔わせるのは、自己脳内で生成した麻薬物質。 己の意識でカラー画に再構成するプロセスの、媚薬にもにた魔力は、

 


…それは…、

 


半端なものではない。 

 

 

春ニシテ、貝割レ菜ヲ思フ。ー俳句ー

 「季節の句」について書く、というお題をいただいたのはンヶ月前。
うだうだしているうちに季節は巡って春となり、春が苦手な私はウンウン唸り、
ああでもないこうでもないと踏鞴を踏んでいるうちに春は過ぎていきまして
(狙っていたんじゃないかと言えばその通り)、やっと落ち着いたところです。
 
咲き誇る桜や愉しそうな人々は綺麗すぎて、どうにも気後れがするのです。
「春?ああ、行っちゃいましたか」と、惜しむくらいが丁度いいのです、ええ、渋茶でもすすりながら。ずずっ。
「花を踏んでは同じく惜しむ少年の春」…いいこというなあ、白居易
 
そして、ようやく書きましたのは、秋のこと、それから季節の俳句に対する想いの2つ。
 
=SIDE A=
 
句会に参加して1年が過ぎた頃、会社帰りの中央線の中で出逢った句に、
ぐっと息を呑みました。
その句が写した景色の清浄な美しさに辺りの音が聞こえなくなり、
ひたすらに味わい尽くそうとすれば身じろぎすることも出来ず、
あげく終点まで乗り過ごすこととなったその句は、川端茅舎の手になる作。
 
「ひらひらと月光降りぬ貝割れ菜」
 
ただこれだけの句です。
細く柔らかな貝割れ菜をじっと見ていたら、ふと、かすかな風に貝割れ菜が揺れたのでしょう。
その双葉はひらひらと薄羽の羽ばたきのように揺れたのでしょう。
ただそれだけの景色です。
ですがこの時、茅舎の目によって風は幾ばくかの質量を得た月光と置き換わり、
月の光と小さな葉たちの間に直接のふれ合いが生まれた時、
天の月神が、地のあどけない菜に慈愛を注ぐ、恵みの世界へとその様を変えました。
 
これは一つの浄土です。
 
月の白い光と貝割れ菜。
誰の日常においても容易に手に入れられるこのモノ達は、浄土がすぐ側にあることを示しましょう。
たかが貝割れ菜ですから、ここには読者に踏鞴を踏ませるような威圧感はありません。
その景の中に佇むことはどうやらあっさりと許されそうです。
 
ただし、定員はひとりきりです。
 
誰かと一緒に入るには、この世界は密やかすぎるのです。
人の呼吸にすら震えそうな貝割れ菜と、その貝割れ菜を愛する月によって現れたこの浄土は、
二人分の質量を一度に背負えそうにありません。
 
ひとりずつ、ひとりずつです。
読んだ人だけが中へと招かれ、恵みの光を浴びることができる、それはそれは親密な優しい世界であるのです。
あなたがとりわけ大事な存在なのです、と、言われているようではありませんか。
 
八王子を出発し、吉祥寺辺りでボロボロ泣いている自分を見て、
周りの人は何だこりゃと思ったかもしれませんが、
ハンカチ2枚目に突入する勢いは止まりません。
感動と絶望が、一度に来たからです。
その清らかさに心が震えた感動、自分が求めていた世界がここにある、という感動。
そして、
自分が現したかった世界が既に他者によって完璧に展開されていた,という絶望。
 
・・・・・
それから数ヶ月,茅舎の句はある意味で私の人生を変えました。
ちょっとだけ、仰角25度くらい。
出逢えて良かったと、心から思います。
・・・・・
 
=SIDE B=
 
涙が出るほどに慕わしい風景が、誰にでもある。
息が出来ぬ程圧倒される景色や、
胸が痛くなるほどにあどけない情景も。
 
私たちの生まれた世界は、そんな宝物を春夏秋冬折々に、ふいに披露してみせる。
 
春の、八重二十重に轟々と舞い踊る桜吹雪を、その中空を見上げる赤ん坊の瞳を。
夏の、影さえ光る真白な入道雲の峰を、その下を駆けてゆく少年の汗を。
秋の、赤に緋に、紅に黄金にと燃え盛る錦繍の紅葉を、その葉を浮かべ重ねる酒杯を。
冬の、刀刃の如く怜悧な月の光を、その光のもと深蒼の影を落とす雪を。
 
宝物を留め置きたいと思うのは誰しも同じ。
 
しかしながら常にカメラがある訳ではなく、その様を写し取る画力が備わっている訳も、
音楽に落とし込む才も無い。
詩やエッセイ、小説にする程の長文統語能力も語彙もない。
だけど僕にはピアノは無いしビンボウヒマなし恋人も(以下自重)
 
それでも、この情景を、この気持ちを残しておきたいと思う時、
そしてあわよくば誰かに伝えたい、と願う時、
わずか17文字が、それを可能にしてくれことがある。
 
何もいらない。
スペースも時間もいらない。ペンと紙きれ、今時ならスマホ、それもなければアタマの片隅で、
5・7・5の17文字に気持ちを詰めこんでみるとのいい。
いっそ季語すらなくてもかまわない。
生まれた一句は、間違いなく、その風景をあなたの人生にぽちりと留めてくれるだろう。
そのようにして留めた記憶が失われることは、そうは、ない。
 
生まれた時と死ぬ時は裸一貫で、何一つ死の床まで持っては行けない。
記憶もおぼつかなくなり、覚えていられることも限られよう。
それでも。
たかが17文字であれば意識の片隅にかつかつ置いていられよう。
最期に呼び起こした記憶のカケラは、こうも慕わしいものたちと出会えたならば、
「人生はそう悪いことばかりではなかった」と、
穏やかに心を慰めてくれることだろう。
 
そのような17文字に出逢えれば、
そのような17文字を詠むことが出来れば、
 
世界はこんなにも美しかったのだ、と、感謝できる。
 
と、思う。
 
ともあれ。
 
最高に手軽で最高に短時間に着手できて、最後の最後までもっていける記憶のカケラとしては、
特Aランクをつけていい、使える機能を持つシロモノではないか、と思うのです。
俳句というものは。

【プロミスト・ランド】所感、その2。

 既に10月。

 

 舞台のdetailを忘れだす頃であり、その分記憶が濾過され妄想が暴走している頃合いである。

 小劇場の舞台の観劇は、時に命懸けである。大劇場であれば物理的に距離があるので「肉迫」感をこちら側でコントロールできる部分があるが、小劇場だとそれが難しい。己の価値観との競合や共鳴、違和感などの翻弄のあげく、帰宅してから寝込むことすらある。

 それは舞台に限らず、行事やイベントでもそうなのだが。

 

 

3.「アヲ」のカウンターパートとしての「朱砂」

 

 アヲと朱砂は「似た者同士」ではなく、決して相容れないカウンターパートだ。

 朱砂は才能がまずあってdistortionがある…というより才能とdistortion同時多発テロを起こしている存在であり、アヲは先ずdistortionありき、その反作用つまり生き辛さによる強い内圧の暴発としての創作者なわけで、根本的に方向性が真逆だ。

 彼女は実のところ何も困ってはいない。接触アレルギーやコミュ障について、ちょっと不便だなあくらいは感じているだろうが、「ま、でも、絵描けるからいいか。」、だ。部屋の外で核弾頭が飛び交おうと、閉鎖病棟に隔離されようと、絵筆とキャンバスがあれば問題ない。アレルギーで倒れた後も回復したら恐らく何事もなかったかのように絵を描くわけで、例え朱殷が出ていこうが、泣いた後で「よく泣いたなあ、じゃ、ちょっと絵を描くか」となる人種だ。他に何も無くても、何も知らなくても、彼女にとっては全く苦ではない。幸せな視野狭窄の中に、彼女は存在している。

 …芸術に愛されたtalentの持ち主のありようについて、曽田正人はバレエ漫画「昴」の中で、プリシラにこう語らせている。 

【『バレエ界のことも、世界のことも、どこかで起きている戦争のことも、夢中の前では何も考えられない。

今、私は世界で最も視野の狭い37歳かもしれない。

それは幸せなこと。

一途に突き進める道の途中では、一切の迷いはなくなる。

視野の狭さは、夢中を生きる者の特権だわ!!」(8巻より)】

 14名の中で実は「約束の地」を必要としていないもの、すでに「絵を描く」という形で手に入れている存在。それが朱砂である。

 

 一方アヲは。

 己の生き辛さからくる暴力的内圧の矛先としての創作が開花した存在で、これもある意味稀有なサンプルではある。大概は開花など必ずに朽ち果てるのだから、恵まれていたといえなくもない。

 ただ、アヲの困難さというか面倒臭さは、アヲ自身をそれを自覚しており、「Distortion→内圧→創作→結実」という図式を確信犯的に手放さないところにある。原動力としての生き辛さに耽溺する己の業に歯噛みしつつ、そこからくる自己損傷衝動からの一時的な救いを求めるという矛盾構造に居座り続ける。「病床利得」と言ってしまえば安直だが、アヲは己の存在感全てをもってして周囲に無言でアピールし続けるのである。密林に住む、派手な色の毒カエルのように。「自分に気をまわせ、自分を見ろ、だが触れてくれるな」、と。

 なので、アヲは「文を書ければそれでいい」にはならない。病状、コミュ障、己の作品の出来…全てに苦しみ続けることを自ら欲するわけだ。まるで贄のように。その意味で、芸術家というよりは技能者に近い。

 アヲは、朱砂に憧憬、そして憎しみすら抱くのではないだろうか。

 そして朱砂は、アヲについては絵筆を持った瞬間に忘却するだろう。

 創作者としての二人のカーストが顕れていたのは教室でのアヲと朱砂のファーストコンタクトの場面であろう。二匹の野生動物の接触に例えればわかりやすい。まず弱者が腹を見せ、次に強者がそれに応える。図らずもアヲと朱砂の優劣が暗示されていた場面であり、アヲに朱砂との断絶を決意させただろう瞬間である。

 

 朱砂はその圧倒的才能の故、奇矯であることを主張する必要がない。だから、ラストシーンで展示された朱砂の作品は正統派の高レベル絵画だった。一方、アヲの作品は「変な人」系であることに、アヲの必死の「逸脱存在であることの表明」が見て取れる。

 

 

 アヲに対して辛辣?

 まあ、そうですよね、ふふふ。

 

<中休み>

 日疋氏とアヲを同一視もしくは分身と看做して「プロミスト・ランド」を見ることは、安易だが危険だ。そんなことするとですね、日疋氏の狙い通りというか、罠にはまる。 

 もっと違う何かなんですよ。これ。

 「僕は、永遠に生きたい。」

 アヲのセリフの一つですが、じゃあ、月イチのあれやこれやら、ジェラシーやら計算っ子的なところとか全部ひっくるめてでもいいんだな?と問うたら絶対イヤだ!と叫ぶだろう、アヲは。

あれは、「月が綺麗ですね」と語意的には違うが用法上では同じものだ。

 欲しい欲しいといいながら、差し出されたらぬるっと躱すアヲなのだ。

 

 

【プロミスト・ランド】所感、その1。

 9月、日疋氏率いる劇団「ぷろじぇくと☆ぷらねっと」の公演、『プロミスト・ランド』を見てきたので、その所感をまとめておこうと思います。

 注)そもそも私は、内藤陳氏の書評を読んで心を打ちぬかれ、「ファンがクールでどうする、入れ込まなくてどうする、評が激情に溢れながら逆上していかなくてどうする!」という信念の持ち主なので、おそらくどんどん文体が逆上していくと思われます。

 論理性や整合性を求める理性的な方に置かれましては、自己責任で読み進めてください。

 

1.「約束の地」としての『白い椅子』

 「約束の地」とは聖書用語で、旧・新約聖書に共通して現れる言葉であり、もともとは【、イスラエルの民に与えると約束した土地。この約束は、アブラハムに最初に与えられ(創世記15:18-21)、次いでその息子イサクに、さらにイサクの息子でアブラハムの孫であるヤコブにも与えられた(創世記28:13)。約束の地は、「エジプトの川」からユーフラテス川までの領域とされ(創世記15:18-21出エジプト記23:31)、出エジプトの後、約束をされた者の子孫に与えられるとされた(申命記1:8)。】(Wikipediaより)ものであるが、文学や諸作品においては「求めていた土地、楽園、いつか辿りつく場所」の代名詞として用いられることが多い。

 「椅子」は同時に、人の「現実」における地位やポジション、受け入れられている場所、定位置の代名詞であることから、舞台の「白い椅子」は、「約束の地」の皮肉な体現であると言えよう。

 この椅子は、常に舞台上に存在しているので、当然劇中人物も観客も視認している。が、時には場面転換のネジ回しに使用され、時に柵となり、「椅子」として機能している場合でも人物が代わる代わる腰かけてはすぐに立ち去り、時にはベンチに、時には教室の椅子、アトリエのチェアと、性質も持ち主も共に、常に浮遊する不確定な存在だ。

 そのような不確定なモノ、見えていても見えていない何か、すでに辿り着いているかもしれないのに気が付いていない場所、自分だけのものではない位置が、半透明な存在の重みをもつ「椅子」として提示されていることになる。

 「どこかに行きたいがそれがどこであればいいのか分からない」場合、同時に、「その場所を受け入れたくない」場合、「約束」は、いったい誰と誰が結ぶのか、その約束は有効であるのか、「命」を持つのか否か。

 ここで椅子の色である「白」が意味を持つ。聖書時代、墓の入り口を塞ぐ石が白い漆喰で塗られていたことから、「白」は「清/聖/整」では無く、死と警告の象徴であった。今ここで「椅子が白い」のであれば、この約束は、「命」を持たず、実現され得ないものである。

 ただし、現時点では、である。日疋氏はその現状に対峙し、抵抗の旗を振る。約束の地を得るがために。それがこの舞台の一要素だと思われる。

 「いつかどこかに帰りたい」というのは日渡早紀の漫画「ぼくの地球を守って」中のセリフだが、『プロミストランド』が継続公演であるのは、「それ」が未だ姿を持たないものであり、日疋氏の希求の道程の実録だから、なのだろう。(「自分探しの日記」という、凡人がやると、後で見返した時にこっぱずかしくてのた打ち回るテイのものだ)

 椅子という日常品。そこに色が付いた時、もしかすると「約束の地」の姿を垣間見ることができるのかもしれない。ただし、「気が付かなかっただけで、いつもそこにあった」的な青い鳥エンディングは、無い。これは絶対に無い。もしありそうと思うとしたら、それは「あなた」がこの世からの逸脱や追放を真の意味で味わことったなく、いくばくかの希望を現状に抱いているからだろう。こんなこと言ってますが、もしあったらどないしよう。

 

 あ。そういえば、この椅子に、濡羽は椅子として一度もきちんと腰かけていない気がする。もしそれが正しいなら、私が考えている濡羽の闇や救いの無さが裏打ちされるな。

 

 はい、だんだん文が崩れてきましたね。評論家じゃないんだからこのまんまの勢いでサクサクいきます。

 

2. 物語の地母神としての「朱」

 登場人物はそれぞれに対比され得るカウンターパートを持つが、双子の母である「朱」は、ただ一人特異な存在である。他13名は、2次元的なXY座標面上での対立を示すが、朱は13名とは異なり、3次元的なZ軸上に唯一存在する真のカウンターパートだからだ。

要は唯一彼女がこの世のスタンダートの枠内の人物だからで、「んなこといったって旦那をナイフで刺してるんだから犯罪者じゃないか」と言う向きもあろうが、自分の子供を守るために牙を剥くのは母性の持ち主としては至極真っ当な性質であって、見なかった振り、ネグレクト、一緒になって圧迫、ひたすら耐える(この場合、根本的には自己防衛なのでやっぱり母性の欠如と言えなくもない)していくよりよほど正しい母親だろう。

 小説家の平井和正は、高橋留美子論の中で「物語における地母神論」を主張している(ちなみにこの評論もかなり逆上型であるので一読する機会があれば是非)。要は物語には必ず「女神」というか「地母神」的存在があるという論であって、その地母神は①かならずしも主人公とは限らない②決して物語中でカリカチュアライズされることがない③駄作になるか良作になるかは、コアたる地母神の存在の有無で左右される…云々。たとえば「うる星やつら」の中のラムがそれで、他のキャラがどきつく戯画化されるときでも、ラムの表現は崩れきることがない。仮に彼女の神聖さが損なわれるとしたら、「うる星」はただのドタバタギャグに堕し、そこに流れるペーソスや深みが一切失われることになる。

 さて、そこで。まさに「朱」はこの作品において、そのポジションにいるわけだ。場面転換の際の登場人物が妙なポーズをとる場面やギャグ化したりする場面に、彼女は一切関与していない。彼女の至極真っ当さを起点として、Distortionや逸脱(と言われるもの)が浮き彫りになる。

   仮に彼女がドラッグクイーンみたいな存在だったとしたら?ギャグっぽいキャラだとしたら?もっとヒステリックだったとしたら?…この舞台の大前提が変容するので、その反対色の顕現として、まったく色彩の変わった内容になるだろう。

 その意味で、めちゃくちゃ重要で、かつ美味しい役だったと思います。ただ、子宮の中まで見せなくちゃいかんので、深く掘り下げて、掘り下げた揚句に抑制して、統制のとれた存在感を必要とされると思われるので大変だったろうなあと思います。

 

 どんどん、しゃべり口調になってきましたね。

 

こんな感じで、続く。

 

「アオのカウンターパート」「輪郭のない朱殷」「濡羽の闇」あたり書ければいいなあ。

秋の光

秋色の

デッド・エンドや

カレー飽く


…やばい。

次の手が無いんですけどねえ。


…おまけに、こないだ、オノレのクリエイティビティを抑え込む気力がなかったとき、

なんかもうバカみたいなもん作っちゃたんですよねえ。


さて。

最近は子供さんや赤さんOKのコンサートが増えてきました。良いことです。

先日もそんなコンサートのポスターを発見。

「泣いちゃっても大丈夫!」とか。


曲目に「カルミナ・ブラーナ」。



おい。


…泣かせたいのかな?


https://youtu.be/GolC05IWgho


【結論】最近は米と塩,醤油がいちばん旨い。

千秋楽の舞台を観に行く。

 

 

【プロミスト・ランド】-ぷろじぇくと☆ぷらねっと 演-

 

西でも南でも三丁目でも御苑でもない、東新宿

 

詳しい感想は、後日。

 

…時に、台本がいのちで、役者が器としての身体と思うことがある。

 

どこまで空になれるか。

空になった分、新しいいのちが蠢き出すような。

 

あと一回の夜公演で、この蝉にも似た作品は、幕を引く。

 

舞台後に残された「空蝉」を、

どう受け止めるか。

そっと大事にしまうのか、

ぽいと捨てるのか。

 

唸るのか、笑うのか、泣くのか、論じるのか。

 

それとも。

 

くしゃりと、

握り潰すのか。

 

そこから先は、観客の領分。

そして、観客の責任。

 

観客に強いてくる舞台である。

同時に、応えるに値する舞台でも、ある。

 

https://www.facebook.com/296163503834154/posts/1695958153854675/

 

#プロミストランド

 

#ぷろじぇくとぷらねっと

 

 

 

 

 

 

 

頑張る子達に声援を。

えーと。


「がんばるモノ」にすぐ感極まって涙腺が緩むのは、

はやぶさ」やら新幹線やらに始まったことではないが、


とうとう建物にまで移行するとは思わなかった。


石狩いいいいいいい!

よくやったあああああああああ!!!!!


(もちろん人への敬意も忘れてはおりません)


https://www.google.co.jp/amp/ascii.jp/elem/000/001/738/1738515/amp/